朱とニンニク

「なんか、中学校の社会科みたいじゃん。」

 電話先の中学の友人の言葉が、今朝になっても耳孔から出てこない。なんとかそれを振り落とそうと、立ち漕ぎでめ一杯の勢いをつけて、丸太町通りを東に入る。

 大学に入学して初めての日曜日、暇を持て余した私は、何のためでもなくただふらふらと平安神宮へ散策に向かった。まだ、独りだが大丈夫だ、今週までで喋ることの出来る人はいくらかつくった。来週にはきっともう馴染めている。こっちに来て買った店で一番安い自転車で、車道の脇の風を切る。望んではいなかった入学。大学に落ちたことより、親への申し訳なさのほうがより募っている。その事実が、一層情けない。

 真朱な門と、その手前にLOGOSか何かのテントの群れが見えた。私は公園の方に自転車を曳き入れて、そわそわしながらワイヤー錠で野球場のフェンスに括り付ける。この日はちょうど平安神宮の向かいで市が開かれているようで、よく晴れて穏やかな日曜に似つかわしい日を演出している。さらにその向こうには美術館もあるらしく、どうやら丁度何かの展覧会が開始されていたようだ。だが、「参詣は『ついで』にしちゃいかんよ。」との死んだ祖母の言葉を私は思い出して、足早に境内の方へと向かう。そうだ、参拝が済んだら、再来週は一周忌で名古屋に帰るのだから、あとで日持ちのするお菓子でも買っておこう。

 応天門の足元まで来て、私は少し立ち止まった。なぜ神社の朱は、何故ここまで清く豪然とした色なのだろうか。神社であるという先入観からくるものなのか、それとも見向きもされない灰色や青銅色の屍の上に座しているからか。しかしそんな考えも、哀れな現代人の頭からは早々に身支度して出て行ってしまい、残るは「写真、撮ろうや」と喧しい電子機器ばかり。そいつ等に身を任すまま、私は誰に送るでも見返すわけでもない写真を撮った。スマートフォンのロック画面には、「通知センター:母:1分前:いつ迄も地元の友達にしがみつかないで、新しい世界に踏み出したのなら、新しい友達と良好な関係を築けるよう努力して欲しいですね。そんな話が聞きたいです。」の文字が、冷たいブルーライトで映し出されている。うるさい。大きなお世話だ。一週間でそんなすぐに友人関係が進むかよ。というか、仲のいい奴が出来たとして、大学生にもなって誰がいちいちそれを親に報告せにゃならんのだ。いや、こんな煩わしいことを考えないよう心を清めるためにここに来たのだ。私は脇にあるお手水で手を清める。コロナ禍によって淘汰された柄杓に代わって、竹の筒が無様に水を垂らし続ける姿は、私は案外嫌いではない。手を拭こうと思ってポケットから取り出そうとしたが、ハンカチは忘れていた。

 応天門をくぐると、想像よりもかなり広い境内がそこにあった。四方を力強い朱に囲まれ、その中にただ立っている自分。自分が凡夫であることを否応なく再確認させられるほどに、素人目でも「格調」を感じた。「聖域」の名に相応しい姿で美しく、無謬の王のように、大極殿は私を出迎えていた。少しその場に立ち止まったものの、光景に圧倒されたことなど無かったかのように、私は護符やおみくじに並んでいる人々を横目に流しつつ、迷わずに真正面の大極殿に進んだ。じっくりゆっくり見て回るのは、祈った後だ。とはいえ、お賽銭として財布から取り出したのは、五円玉一枚だけ。そのうえ太宰府天満宮に行った時のように、四枚も五円玉は入れない。そのうえ、あまり祈るようなことも思いつかない。「友達が出来ますように」なんて願い事こそ神様の領分ではないだろうし。私はマナーエチケットを遵守するように恭しく賽銭箱の前に立ち五円を投げ入れたものの、何回すれば良いのか分からぬ礼と拍手をとりあえず打ち、当たり障りなく自らの健康を祈って、そそくさとその場を後に去った。いつかの祈りより今の観光だ。そう、観光をしようではないか。大極殿のすぐそばに「神苑入口」のブースが砂利の上に立っていた。入場料は六百円。何、こういうところで財布の紐を締める奴に碌なのはいない。財布を出すのを手こずりながらも、それでも愛想のいい受付のお姉さんに小銭を渡し、入園チケットを受け取った。チケットに描かれていたのは池と枝垂れ桜と勢いよい筆の龍。こいつは栞程度ならちょうどいい。そのままチケットの半券を渡して残りをポケットに入れ、私は外苑の入り口を抜けた。

 そこに広がっていたのは、あまりにも開放的で、自然の中にいるような人工だった。葉桜になりかけている紅枝垂れ桜は、神社の紅よりも優しく、脆い。花は柔らかい風を前に揺れて、少しだけその身を苔の生した巌に散らしている。私は散った桜の少し枯れて茶色がかった紅の方が、好きだ。一方であまりにも整いすぎた神苑には、美しい以上の何かを感じてやや恥ずかしさを覚える。私が桜を見ながらゆっくり歩いている前で、着物姿のカップルも談笑して歩いていた。彼らはどちらも容姿がよく、祭りでもない日の着物姿であった為、よく目立っていた。彼らを映した私の眼の水晶体は、旧帝国大学に合格した友人を見るときと同じく霞んでいる。

 「ねぇ、あっちすっごい人並んでるね。あ、桜すごい咲いてる。」

着物の男が彼女にそう言ったのを聞いて、私はそちらの方に目を移した。そこには八重咲の重みのある桜が、遅咲きの満開となっていた。その木陰には賑やかな中国人観光客と写真を撮る列に並ぶ日本人観光客が入り混じって群れを成している。私もその群れに吸い寄せられて、その樹の下に入り込んだ。確かに綺麗だ。花の一弁一弁が大きく薔薇のようで、派手で豪快。堂々として力強い全盛期を謳歌している。そう、見ているだけで淡い芳香も感じられるような気がするほど綺麗なのだ。だが、私はこれを見たいのではない。

見上げていた頭は自然と足元に傾いていた。そこには、桜に届こうとするかのように力強く天へと伸びる草が二本。『忍辱』と筆字で書かれた小さな看板を背負って生えていた。着物の男は桜に映える彼女を写真に収めていて、私とニンニクには一瞥もしない。

私はこいつを見てやるためにここに来ていたのか。そう思った。 

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二割「ほんとう」吐きショートショート集成 宇都宮銀次郎 @uthuginzyo

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