二割「ほんとう」吐きショートショート集成

宇都宮銀次郎

平凡な光輝

 今日のライブまじで最高だったな、と俺に囁きながら吊革にぶら下がるお前は、やんちゃな子犬みたいで、でもちょっとくたびれたアニキのようで、そしてもって、エロい。

 俺たちの最寄駅は繁華街から一本で繋がっているから、この最終電車は今にも溶けそうなホワイトワーカーや、割り箸が結び目に刺さったレジ袋を提げたオフィスレディ、そして俺らのような『学業』が頭から落っこちた快楽主義者らの群れによって、例の不思議と高揚した雰囲気に包まれている。次の駅をアナウンスする声色は救いを見出した受難者のようで、酔った野郎たちのピアスも眩しい。コンクリートの筒の中を流星の如く駆ける旧型の車両のなかで、流れに身を任せ揺られているのは決して吊革だけではないだろう。

後ろの明るい茶髪の女に押された佐伯の鎖骨が、近い。

「いやぁ、ほんと最高。VictOriaN、やっぱケイが言うだけあってすげぇ。なんていうか、その、あれ。めちゃくちゃベースが『鶏肝煮』みたいで」

「どういうことだよ!……いやぁ、でも良かったわ、お前を誘えて。佐伯、お前また新しくバンド組んだんだろ?もうお前以外みんなバンドやめているからなぁ」

「それにあのバンドで今お前が誘えるやつはもう、俺くらいだろ?」

「そこんとこ突いてくれるなよ……もう終わったことなんだし」

 佐伯の後ろの女はその彼氏と思われる男に寄りかかって、その胸元に頬ずりをしていた。『相談無料!気軽にお問合せ下さい!』とのたまう法律事務所の広告は、彼女たちを上から笑顔で見守っている。

「まさかリョーカがミツキに取られるとは思わなかったもんな、さすがにあん時はお前、可哀そうだったわ。……でもお前、それでも飄々としてたし、やっぱめちゃくちゃメンタル強いよな」

「佐伯こそだろ」

「どこがだよ。俺のメンタルなんてよわよわだぞ?三歳児並み」

「普通に強ぇえじゃねぇか」

 座席の形にフィットして座りながら寝ている会社員の、その禿げているのをみて、俺らはまだまだだと思った。摩耗して、摩耗して、それでもなお既定の道を進む車輪に対して、線路があることを羨ましく思う。

「バンドから逃げた俺よりは確実にメンタル強いぞ?佐伯。」

「大学と現実から逃げた俺に向かって良く言えたな」

「……どうなん?最近食えてるの?」

「バイトで何とか。親の脛はどうなったって齧りたくないからな。まだ家は出られてないけど」

「そこが偉いんだよ、お前のそういうとこ……良いと思う」

列車は頭を擡げて傾斜を上り始め、土の下から、そして都市と呼ばれる部分から脱出しようと進み続ける。しかしながら、確実に列車はその傾斜に足をとられて停車駅を欲していた。会社員もOLもピアス野郎も俺たちも、不揃いな者達が一斉に進行方向に身体を傾けている。

「将来とかさぁ。どうすんだろなぁ?俺。誰かバンドに誘うみたいに俺を社会に誘ってくれねぇかなぁ?」

「そんなご大層なコネのあるお家に生まれてりゃ、誰だって苦労しないさ」

「でもそんな感じの実家だったら、今みたいな生き方は出来てねぇんだろうな」

 佐伯は捨てるタイミングを見失ったハイボール缶を、手中で握り締めたり緩めたりしていた。潰れた缶の口から、雫が少し垂れている。

「あぁー、バンドしながら高卒のままで家庭持ちてぇー。『社会性◎』のバッジ欲しぃー」

「相手はどうすんだよ、お前、彼女出来たためしがないだろ?」

「彼女いるぜ、作った」

「嘘だろ?」

「嘘じゃねぇ、肋骨から作り出したんだよ」

 電車がまた停まる。この駅は都市を出てすぐのベッドタウンだからだろうか、記憶に残りにくい類の人々は軒並み下車していった。空いた席には、操り人形のような覚束ない足取りでピアスの青年たちが横一列に並んで座る。立っていた時には明確でなかった彼らの関係が、座席にはっきりと投映されていた。

「リョーカのあと、ケイってさ、彼女出来たの?」

「出来てねぇな」

「ってかお前、本能はあいつの事、そんな好きじゃなかったんじゃね?」

 開いたドアから雪崩込んできた冷気を足元に受ける。暖房をかき消すその冷たさに静寂を感じるのは気のせいだ。ピアスの六人組が相も変わらずカラオケの話題で車内を埋め尽くしているのだから。左から二番目の耳ピアスが初っ端から君が代を歌ったという他愛もない話題だ。この面白みのない安寧に、真ん中の顎ピアスと短髪女ピアスがゲラゲラと口を開いて笑っている。そんな喧騒とは離れて、溶けている会社員は口腔をかっ開いて、唾液を垂れ流している。

「そういえば俺、バンドの曲の中でしか愛してるって言ったことねぇわ」

「お前、ほとんどボーカル担当してなかっただろ」

「いやぁ、一生に一度くらいは誰でもいいから言っみてぇよなぁ。ケイはいいよなぁ、彼女がいたし」

「そういえば、俺も言ったことなかったわ」

「やっぱお前、リョーカとは縁が無かったのかもな。知らんけど」

車内は外界から隔絶されて、鞭を打たれたように電車はぷしゅう、と大きな溜息を吐く。車両は重い腰を再び動かし始めた。厚化粧のOLは生足をやたら強調した女子大生のTikTokから一切視線を外さずに、器用にコンビニのレジ袋の結び目を解いている。

「なぁケイ、お互い三十歳になったら結婚しない?」

「法的保護が認められたらな」

「このセリフも一生に一回くらい言ってみたいよな」

「……いうほど言われたいか?ここに至らないうちに結婚しときたいだろ。家族計画的に」

「バンドマンが計画性を持ち合わせてると思うか?」

OLはたまらず、レジ袋から取り出した湿った揚げ物をつまみ食いしていた。彼女は口を大きく開けまいと努めながらも、疲労と憂いからだろうか、結局三口で食べ終えてしまって、開く側のドアに気だるげに身体を預けてピアスたちを一瞥した。列車はただ一方向のみを見つめて、己の道程を顧みない。

「なんかさ……」

「お前、さっきから無理やり会話続けようとしなくていいんだぞ?」

「…………すまん。こうしてなくっちゃ、どうもやっていけなくってな。俺、アホだからさ」

 車窓の外は、オリオン座が煌々とその整った連なりを示していた。佐伯の後ろで抱きつかれている男も、憔悴した様子でぼんやりと同じく車窓からの景色を眺めていたが、彼は関心を月に向けているようだった。……いや、彼は時々OLの松葉杖のような太腿をちらちらと見ている。

 ふと、足元を見ると、俺の靴紐が解けていた。でも、そんなことはどうだってよくて、佐伯のスニーカーがカッコいいことの方が、俺の目には優先度が高く映っていた。今度、その色違いを買おうか。床に放り出されている土汚れした自分の靴紐を見て、ぼんやり考える。

「ごめん、佐伯。これ完全に悪いあたり方したわ。最悪だな、俺」

「いや、俺が良くなかった。……うまく生きてゆけるようにならなきゃダメだな」

 電車の窓ガラスに反射した俺の顔は、思っていたよりも不細工ではなかった。佐伯の顔は…………光が乱反射して見えない。アルデバランが丁度、俺の額のところでまるで白毫のようになっていて、幾分か穏やかな顔をした知らないヒトが映っている。俺は今までこれを見ていなかったな、と思った。

「いや、やっぱ俺がダメだ。俺の方が、じゃなくて、俺が。余りにもメタ認知が足りてねぇ」

 電車は再び減速し始めた。このまま、時間が進むのもゆっくりになっていく感覚を腹の底に感じる。いくら加速・減速を繰り返しても最後は必ず停車してしまうなら、出来るだけ長く乗って、加速も減速も楽しみたい。

「ケイ、今何か食いたいもんある?たまには気ぃ遣わずに自分の好きなもん言えよ」

「豚キムチ」

「メタ認知と韻踏んでんじゃねぇよ、……しゃあねぇ食いに行くか」

 雲がまばらな今夜の空をぼぉっと見ていると、おうし座の全貌がうっすらと分かってきた。アルデバラン以外はかなり暗いが、朧げに何とかその形を掴みかけている。俺は目だけはいいのかもしれない。

「金あんのか?」

 汚い庭付きの平屋の群れの隙間を、一等星よりも強い輝きを放って車両は通り過ぎて行く。『飯行こう』の免罪符を手に、俺は佐伯の顔をもう一度まじまじと見つめてみると、佐伯の色素の薄さも、喉ぼとけも、指の節くれも、やっぱエロい。だけど今は、俺も案外負けてねぇんじゃねえかな、と少し自惚れてみたい気分だ。

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