第9話

 カラン、とドアベルが鳴る。


「ああ涼しい……」


「いらっしゃいませ……、あらみなみ、もう終わったの?」


 外の気温は35度に届きそうな猛暑。大学はすでに長い夏休みに入っていた。3年生にもなると、インターンシップという企業の就業体験など、就職活動が始まる時期となる。教授も気を使って連休中にはあまり課題を出さない。カフェのアルバイトも入ってはいるが、おかげで今年は少しのんびり過ごせる。


 盟友めいゆう?4人組の、私以外はインターンシップに参加するようだ。3人とも大学近郊に実家があるため、都内の会社に就職するのだろう。

 もちろん南も――。


「南ちゃん、インターンに行ってきたんだって? どうだった、お仕事は?」

 澄玲すみれさんが冷たいおしぼりを手渡しながら聞いた。


「大学の授業時間でさえ高校より長くて大変だと思っていたのに、同じことを1日中続けるなんて、私にできるのかなって心配になってきちゃって……」


「仕事に慣れてしまえば、1日なんてあっという間よ」


「ですかねぇ……。あ、注文お願いします。抹茶アイスとシフォンケーキセット!」


「はいはい。甘いもので癒されたいのね」

 と言って、澄玲さんはカウンターへ戻って行った。


「南が本当にやりたい仕事なら、時間なんて気にならないんじゃないの? 大事なのは楽しいと思えるかどうかだよ」


「そうだよね。社内の雰囲気は良かったから、楽しくやれるかもね」


「その調子で面接も頑張って!」


「そうだ、まだ内定も出ていないんだった……」



「テンちゃんは行かなくていいの?」

 カウンターの奥から澄玲さんが声を掛ける。

 私が昼間もアルバイトをしているから、心配になったのだろう。


「私は卒業したら地元へ戻るので、今年のインターンには参加しません」

 参加した方が有利とは言われるが、必須というわけではないし、地元の田舎企業にインターンシップ制度があるところも少ない。


「えっ!? 帰っちゃうなんて聞いてないよ?」


「家のこともあって……。来年は向こうで仕事を探すつもり」


「そんなのやだ! ずっと東京こっちにいてよ、テンちゃん……」


「私も寂しいけど……。ごめん……」



 東京を去ると知って、思うところでもあったのだろうか。後日、南からジュエリーショップへ誘われた。「身に付けるものを貰うと、その人が傍にいる気がする」という理由から、お互いにアクセサリーを選んで交換したいと言う。

 店員さんのお勧めで、ペアのブレスレットを購入した。同性でも親しい間柄に贈る商品として人気とのことだ。

 パッケージに書かれた close to you... は、離れていても寄り添っている、という意味にも取れて、大切にされている感じがする。




「桜のしおり?」


「うん、澄玲さんに貰ったんだ。店に舞い込んできた花びらを栞にしたんだって」


「そうなんだ。また桜咲くようにって意味かな?」


「2枚あるから、テンちゃんに1枚あげるよ。来年はお互い頑張らないと」


「ありがとう、ハル君」


 澄玲さんが『ハル君』と呼び始めたので、私も真似して使うようになった。私以外の人も愛称で呼ぶのなら、恥ずかしがることもない。

 日没が少し早くなってきたのか、店の外は薄暗くなっている。今日は常連客も少なく、今はテーブル席に彼ひとり。いつものようにカフェオレを傍らに、参考書を広げていた。


「テンちゃん。次の日曜日って空いてる?」


「どうして?」


「僕とデートして欲しい」


 唐突に言われて、持っていたトレーを落としそうになった。冗談かと思ったのに、ハル君は至って真面目な顔で私を見ている。


「澄玲さんから聞いたんだ。次の春にはテンちゃんが辞めてしまうみたいだって」


「…………」


「そうなの?」


「来年は……、就職活動や卒業論文で忙しいから、アルバイトをしている余裕がなくなると思うの」


「そっか……。もっと一緒にいられると思ったんだけどな」


「私と?」


「今しかないテンちゃんの時間を、僕に少しだけ分けて欲しいんだ」


 ハル君に慕われているのは、薄々気付いていた。本人は無意識なのだろうが、よく視線が向けられていたり、親し気に話しかける距離感の近さを感じていたから。


 静かな店内。二人の会話が聞こえたのか、澄玲さんが話しかけてきた。

「ハル君はね、テンちゃんを水族館に連れて行きたいんだって」


「水族館?」


「そう。前に『ペンギンが見たい』って話しているのが聞こえたから」


「あ、言ったかも……。よく覚えていたね」


 自分でも忘れていた。いつだったか4人でのお喋りの中で、確かにそんな話をした気はする。何気に話した会話の一片を聞き漏らさず、水族館へ行こうと考えていたなんて。本当に私のことをよく見ているんだな、と胸を打たれた。ここは彼の気持ちを汲んであげないといけないかな。


「わかった。一緒に行こう、水族館デート」


「やった!」


「よかったわね、ハル君」




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