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20時のことだった。向ヶ丘遊園駅で下方面のホームで満員の中、菅は先頭に立っていた。

 菅は、酔っぱらっていた。頭の中はグルグルと回り足元がおぼつかない。彼は落ち込んでいた。

 近頃仕事がうまくいっていないからだ。商品は先月に比べると三分の一しか売れていない。それに、商品も入ってこない。出張査定の数も激減していた。しかも、売りに出したエルメスのスカーフが偽物だと分かった。どうにか客に謝罪して警察沙汰にはならなかったのが不幸中の幸だ。

 こんな事、商売を始めてから初めてだった。


 菅がこの仕事を始めたのは20年前の30歳の時のことだった。彼は、勤めていた会社が倒産して職を失った。当時、結婚したばかりで、子供も産まれていたので、かなりのショックだった。

 菅は、履歴書をあらゆる会社に送った。どこも不採用だった。

 貯金が尽きかけたその時に、古物商をやっていた叔父さんに誘われて、古物商を手伝う事になった。

 最初のうちは、菅は新しい職場が見つかるまでのアルバイト感覚でやっていたが、そのうちに、コツを掴み1年もしないうちに商売が軌道に乗った。当時は、まだインターネット黎明期で、ネットのオークションサイトと、リサイクルショップに掘り出し物が沢山あった。それを買い込み、プレミア化したものをマニアに売り捌いた。

 そのうち菅は、コネクションも増えていき、いつの間にかサラリーマンの時の給料よりも利益を上げる事に成功していた。

 ここ20年間は安定して商売ができていた。それがこの1ヶ月で、急にうまくいかなくなった。

 きっと、スランプだ、と菅は自分に言い聞かせた。スランプならきっと元に戻るはずだと。


 それに、最近は夫婦仲と娘仲が悪い。

 妻はそれまで円満だった関係が、急に凍りついたかのように菅の事を避けるようになった。何を言っても、そっけない返事しか返ってこなかった。寝室が一緒だったが、菅は妻の態度に耐えられなくなり、1階にあるソファーで寝ることとなった。

 娘は、急に反抗期に突入したかのように、話しかければ無視をするし、洗濯物も一緒にしないでくれと言われてショックだった。それまで、まるで友人のように接してくれたのになぜだ?

 原因は不明だが、家に帰ると重苦しい空気感が伸し掛かる。家に居場所が無いと感じていた。こんなことは初めてだ。20年前に仕事を失った時でさえ、妻は菅を常に支えてくれて、就活中は常に応援してくれて慣れないアルバイトを始めてくれたりして献身的に支えてくれた。

 しかもタイミングが悪いことに、愛犬のゴールデンレトリバーのジョンが死んでしまった。死因は不明だ。まだ5歳だ。人間の年に換算すると40歳くらいだ。死ぬのには早すぎる。ジョンは可愛い犬だった。

 元々、菅はペット全般が嫌いだった。アイツらは言う事を聞かないし、金がかかる。だが、妻と娘がどうしても犬が欲しいと言うので、最初は仕方なく飼う事にした。

 しかし、いざ飼ってみると、ジョンは大人しく、吠えることもなく菅に甘えてきた。最初は犬の散歩は娘や嫁の仕事だったが、次第にジョンに対して心を開いた菅が、いつの間にか夜の散歩当番になった。

 ジョンとの良き思い出は沢山ある。家に帰ると、ジョンが走って菅を出迎えて、愛らしい顔で見つめてきた。その光景も、もう見られなくなると思うと悲しくて仕方ない。

 まさか、最後は原因不明の死を遂げるとは思っても見なかった。こんな、ことならもっと、ジョンに時間を割いて一緒に散歩をすればよかったと思った。車でジョンを連れて行き、もっと広い公園でジョンが好きなボール遊びをさせてあげればと。


 今日はそんな不幸続きだったので気分転換に久しぶりに、昔に通っていた居酒屋に行き友人と飲むことにした。刺身の美味しい店だ。しかし、友人は仕事が忙しくなり残業でドタキャンされてしまった。仕方ないので一人で飲むことにした。

 菅が一人で飲んだ。ビールから始まり焼酎をロックで一升瓶が無くなるまで。それから2杯目のビールを注文する時のことだった。隣のボックス席に4人の大学生が座った。

 大学生はビールを注文してから、飲み終わると騒ぎ始めた。話している内容はくだらないものばかりだ。「誰かとヤった」とか「アイツとアイツはデキてるとか」。とにかく声の音量がデカかった。

 菅は最初のうちは、学生なのだから仕方ないと思って一人で飲んでいた。だが次第に学生たちはヒートアップしていき、そのうるささに我慢ができなくなった。

 菅は立ち上がり、隣のボックス席へ行った。

「すみません。もうちょっと声を小さくしてしゃべってくれませんかね?」と落ち着いて言った。

「なんだ、お前?」と黒ぶちのメガネをかけた大学生が言った。

「ですから、声を小さくして・・・」

「うるさいな、ジジイ。お前こそは黙っていろよ」と坊主頭の大学生。

 そこで菅の尾が切れた。「なんだと、このガキが、人が丁寧に頼んでいるのに、その態度はなんだ!」と店中にいる全員の客に聞こえるくらいの大きさの声で怒鳴った。

 大学生たちは面食らった表情をしていた。

「なあ、ジイさん。そんなに怒らなくてもいいじゃないか」と黒ぶちメガネをかけた大学生が言った。

「ジイさんだと。俺はまだ51歳だ。失礼にも程がある。今すぐ、お前ら俺に謝れそうしないとタダじゃおかないからな」

 すると、店主が駆けつけてきた。

「どうしましたか?なにかあったのですか?」

「うるさい、お前は黙っていろ。俺と、こいつらの問題だ。口出しするんじゃない」

「お客さま。そう、怒鳴りますと他のお客様に迷惑です」

「何が迷惑だ。俺はうるさい奴を叱っただけだろうが?」

 店主は呆れた顔をしながら言った。「どうか、お引き取りを」

「何?なんで、俺が外に出なくちゃいけない?つまみ出すとしたら、この大学生たちだろうが」

「いいえ、お客様は他のお客さまにとって迷惑です。どうか、お引き取りください。お代は結構です」

 菅は周りを見渡した。みんなが、菅の事をジロジロ見ていた。

「分かったよ。出て行けば良いのだろ?出ていくさ。こんな店二度と来ないからな」というと、菅は店を出た。


 今日も最悪な一日だった。こんな事なら酒なんて飲みにいくのではなかった、と菅は後悔した。

 そして自分が情けなくなった。いつもの精神状態ならきっと、あの程度では怒らないはずだ。自分が自覚しているより疲れているに違いないと思った。

 まだ早いが家に帰って寝よう。運が悪いことが続いただけの事だ。きっと、そのうちいつも通りに戻ると。

 線路の左奥から電車が走っている音が聞こえた。

 菅は駅の時間表を見る。急行列車が来るのにあと10分もかかる。いま来ようとしている電車は特急列車だ。特急が止まればもっと早く楽に帰れたのにと思った。

 特急列車がホームに勢いよく入ってきた。すると、菅は、後ろから何かに押されたような感覚を覚えた。

 すると、菅の体が宙に浮き、線路へと吸い込まれるかのように落ちていくのが菅には分かった。

 なんでだ?と思った。近づく車両。頭の中に、いろんな記憶がフラッシュバックする。初めて妻と出会った時の事や、娘が生まれた時の事。ビジネスが軌道に乗り始めた時の事。その全てが映画のワンシーンの様に脳内で再生された。

 そして、猛スピードで走る電車の先頭車両が菅の身体にぶつかった瞬間、体内から真っ赤な血液が噴き出て、五体が潰れ、細かな肉片と化した。菅の近辺にいた人たちに菅の血液と細かい肉片がふきかかった。

 ホームで待つ者たちは、何が起こったのか分かるまでに、数秒かかった。それから、自分達のスーツや服に身体にべっとり吹かかった事に。菅の大量の血糊と細かくなった肉片と骨の破片がことに気づきある者は叫んだ。ある者は失神した。ある者は感情が無くなったかのように呆然としていた。

 そして、みんなが悲鳴を上げた。


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