第44話 下等霊のしわざ
「来い」
王妃の姿が見えなくなると、ヴァーツァが俺の手を掴んだ。
「痛い!」
思わず叫ぶと、手首をつかむ力がわずかに緩んだ。けれど、決して放そうとしない。
屋上の庭園には、来客は残っていなかった。使用人たちは遠巻きに見ているだけだ。
俺はヴァーツァに手を引かれ、階段を下りた。
連れて来られたのは、城内のアパルトマン風の一室だった。重厚なデスクや戸棚、ベッドまで完備されている。
「俺の執務室だ」
言葉少なにヴァーツァが言う。彼は俺を、ソファーに座らせた。自分は立ったままだ。
「見せてみろ」
「え?」
「手首。痛いって言った」
返事をする間もなく、彼は俺の手を取った。袖をめくりあげる。現れた手首の赤い痕に顔を歪めた。
「すまなかった」
素直な謝罪に戸惑うばかりだ。
「君は……君は、誰からも好かれていて。トラドや、俺のことを嫌っていた使用人たちからも。身の回りの人はみな、君を愛するようになる」
ぼそぼそと言葉が落ちてきた。思わず俺は目を見開いた。
「使用人の皆さんは、貴方が嫌いなんかじゃない。怖がっていただけです。でも貴方は心を入れ替えたから、今では喜んで奉仕しています」
「それは、シグ、君のお陰だ」
「僕のお陰なんかじゃないです。僕は取るに足らない、つまらない人間です。さっきの令嬢達だって、僕のことを、どちらかというと嫌悪の目で見ていたでしょ?」
ヴァーツァの顔色が変わった。
「どこの家の令嬢だ!?」
「彼女たちに非はありません。凡庸さは、僕の特性ですから。貴方は身の回りの人から愛されるとか言ったけど、僕を好きな人なんか、いるわけがないじゃないですか」
「嘘だ!」
一瞬でヴァーツァがヒートアップしたのが感じられた。
「大家の孫は君に言い寄ろうとするし、王都警備隊の男は、厚かましくも君の寝顔を覗き込んだ!」
それ、シュテファンとジョアンのこと?
「誤解です。シュテファンは僕に言い寄ってなんかいないし、寝顔を見られるくらいなんだっていうんです? ジョアンは僕の親友だ」
ヴァーツァがぎろりと睨む。
「向こうはそうは思っていない。どちらもだ」
「だって、先に僕を捨てたのは貴方じゃないですか!」
あまりの理不尽に思わず口走っていた。
「即刻立ち去れって言った! ひどい。あんまりだ」
あの時彼から発せられた鋭い殺意を思い出し、目が潤んできた。ヴァーツァは、俺がアンリ陛下との友情を引き裂こうとしたと思い込み、怒りを募らせていた。俺の言うことなど、これっぽっちも聞こうともしなかった。
泣くもんか。悪いのはヴァーツァだ。一滴だって涙をこぼすまいと、必死で目を大きく見張る。
「何を言うか、それは誤解だ。君こそ、さっさと島を出て行ってしまったじゃないか」
負けじとヴァーツァが言い返す。俺の怒りが爆発した。
「ちゃんと島を出ていくように、トラドさんに見張りまで命じた!」
「だって、一人で帰すわけにはいかないだろう? 途中、盗賊に襲われでもしたら、」
「きれいごとを言わないで! いっ、今まで、今まで一度だって僕の家へ来てくれなかったくせに! 貴方は住所だって知っていたはずだ」
だって家賃を肩代わりしてくれたのだから。
「貴方は僕の家を知っていた。それなのに一度だって様子を見に来なかったんだ!」
「行ったぞ」
鋭い声が遮った。
「それなのに君は、俺を成敗しようとしたじゃないか」
「嘘言わないで!」
なんて男だ。言い訳に事欠いて、嘘をつくなんて。
「嘘じゃない。俺は君の家に行った。それなのに、君は俺を踏みつぶした。ほら、あの嫌な呪文……ナントカ清浄、きゅうきゅう……」
言われて思い出した。ジョアンとシュテファンに取り付いた、うじゃうじゃした影。二人を食欲不振に陥れ、夜な夜な悪夢をみせていた生霊。呪文を唱えると、四方に散っていった……。
「……もしかして、虫?」
「は?」
「襟から服の中に潜り込もうとした……」
「下等霊の仕業だな。俺が使役した」
けろりとしてヴァーツァは答えた。
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