第40話 お誘いの手紙


 「まだ、結婚したばかりだというのに、夫の足が寝所から遠ざかるなんて!」


 貴婦人の嘆きは留まることをしらない。ベールの向こうの顔が紅潮しているのが感じられる。


「新婚でいらしたんですね」


 なら、焦ることもないんじゃないかと思ったが、口にはしなかった。だってこの女性は、相当、プレッシャーを感じているようだから。


「実はね。夫には、他に好きな方がいるようなんです。結婚前からつき合っている人がいるんです」

「それはひどい!」


 うっかり口を滑らせ、慌てて口を噤んだ。


 とはいえ、新婚の妻を蔑ろにし、他の女にうつつを抜かすなど言語道断。そもそも関係を持った女性がいながら、世間知らずな女性と結婚するなんて。

 しかもその妻は、妊娠しなければならないという周囲からの圧力に押しつぶされそうになっている。夫がその気にならなければ妊娠などするわけがないのに。


「ひどいと思われるんですね?」


 俯きがちだった貴婦人が、そっと目を上げた。ベールの向こうから俺をじっと見つめているような気がするが、気のせいだろう。彼女は動転しているに違いない。


「もちろんです、マダム」

 もう言ってしまったのだから仕方がない。こういう時は、クライアントと一緒になって、悪口を言うに限る。

「本当にひどいと思います。ご主人も、その浮気相手も」


 うっすらと笑みのようなものが、貴婦人の口の端に浮かんだ。


「しかもね。そのお相手さんには、想い人がおりますの」

「え! ご主人の浮気相手の女性には、恋人の男性がいらっしゃるんですね!」


 なんて複雑な関係なんだ! 

 夫の愛人には想い人がいる? ということは、夫の愛人への想いは、片思い? 


 こんなに可愛い妻を迎えたのなら、そんな不倫、諦めてしまえばいいのに。


 夫さんはよっぽど愛人が好きなんだな、と思った。だって、彼女には他に好きな人がいるというのに、諦めきれないのだから。


 そんな夫を空の閨で待ち続ける妻。目の貴婦人が、気の毒でたまらない。


「わたくし、思いますのよ? いつか主人は、愛人さんの想い人に、決闘を申し込むのではないかって」

「貴女というれっきとした奥様がありながら、ですか? 浮気相手のかたの恋人に決闘を申し込むなんて!」


 呆れて首を横に振る。あきらめたようにマダムが微笑んだ。


「だって私達は政略結婚ですもの。主人にとって恋のお相手は別なんですわ。あなたは浮気相手とおっしゃるけど、その愛人こそが、主人の大切な人なんです」


 思わずため息をついてしまった。


「そんな御主人との間に、お子さんが欲しいと?」


 いっそのこと、離婚して新たなお相手を探したらいいではないか? それか、自分も恋の相手を探すか。いや、それはダメだ。ケジメは大切。離婚が先だ。


「ええ。政略結婚の目的は、子どもを産むことですもの。そうすることで、お互いの家の繋がりを、一層確かなものにするのです。いえ、しなければならないのです」

「……はあ」


 身分のある家に生まれなくてよかったと思う。俺は子どもを産むことはないけれど。


「わたくしは、ねえ、シグモントさん。主人の愛人が恋していらっしゃる方が、一番、罪深いと思いますのよ」


 暗く、沈み込むような声だった。


「その方が、愛人さんを振り向いてくれたのなら、主人も諦めがつくでしょうに。主人にとっては、愛人さんの幸せが何よりも大切なのです」


 だから、愛人が恋を成就させないうちは、夫さんも妻を愛することができないというのか。

 それとも、自分以外の想い人のいる愛人が、体だけでなく心から自分を愛してくれるという希望を捨てきれないのか。


「僕にはよくわかりません」


「ええ、そうでしょうね」


 あっさりと貴婦人は頷いた。

 今はまず、仕事だと気持ちを入れ替える。


「まずは、御主人が寝所にいらっしゃるよう、お誘いの手紙を書いてみましょう」


 言葉に気を付けながら提案した。要は、夫さんがこの奥さんと寝ればいいんだ。奥さんは、夫さんに自分を好きになってほしいとか、そういうことは一言も言ってなかったし。


 愛のない結婚なのだ。それでも、子どもだけは欲しいってわけだ。政略結婚って怖いな。

 でも、そういうことなら、よし。うんとエロティックなラブレターを書いてやる。


 とはいえ、真昼間、目の前には、清楚な貴婦人とおつきの少女。とても、エロい文章を書く雰囲気ではない。


 「後ほどこの子に受け取りに伺わせますわ」

何かを察したのだろう。傍らの少女を貴婦人は指さした。


「ああそうだ」

立ち去りかけ、入口で彼女は振り返った。

「署名欄には貴方の名前を記入しておいてください」

「えっ!?」


 彼女は最後まで名乗らなかったから、署名欄は空白にしておくつもりだった。

 そこへ俺の名前を書けと?


「だって、自分の名前を書いた方が、より心の籠った文章になるんじゃなくて? 夫へ渡す前に私の手で清書しますから、ご心配いらなくてよ」


 暗に、お前の字は下手だと言われたような気がする。だが、よく考えれば彼女の言う通りかもしれない。自分の名で署名すれば、文章にも責任が持てそうな気がする。

 何より、つまらないことで言い返して、上得意を逃したくない。

 俺は承諾した。



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