第35話 両肩に掛けられた手


 「シグモント! 帰ってきたんだね。よかった!」

「ただいま、シュテファン。まだ起きていたの?」


 シュテファンは、大家の婆さんの孫だ。俺とそう年齢が変わらない。


「俺を年寄り扱いするなよ? そうそう早寝してたまるか。夜はいつも、君のことを思って遅くまで起きているのだ」


 そう言ってシュテファンは胸を張った。要するに、夜更かしの言い訳だ。大家の婆さんは、ランプの油代がもったいないから、孫の夜更かしをひどく嫌っている。


「そんなことより、シグモント、無事でよかった。今まで一体どこへ行ってたんだい?」

「ちょっと仕事」


 嘘ではない。俺は除霊の仕事でエシェク村へ行って、それから……。


 シュテファンは俺の背後に目を走らせた。そこには、隠隠滅滅とした気配を漂わせ、トラドが立っていた。

 シュテファンが俺の耳に口を寄せた。


「彼は誰だい? 随分陰気な人だね。陰気っていうより、もういっそ化け物じみているというか……」

「怖がらせてしまってすみません」


 内緒話のつもりがしっかり聞かれてしまい、シュテファンは飛び上がった。


「この人は、トラドさん。僕をここまで送ってきてくれたんだ」

俺が紹介すると、暗く陰気にトラドは頭を下げた。

「それでは私はここで」

馬車に戻ろうとする。


「いやいや。もう夜遅いでしょ。泊まっていきなさいよ。空いてる部屋を用意するから」

 シュテファンが引き留めた。

「いえ、私は夜の移動の方が楽なのです」

「けれど、王都は治安が悪くなってますよ。賊や盗っ人にでも襲われたら大変だ」

「平気です。返り討ちにしますから」

 無表情でトラドが言い、シュテファンはたじたじと後じさった。


 トラドが送ってくれると言った時、正直、俺は怖かった。だって、ヴァーツァに捨てられたら、トラドに襲われるのだから。


 彼と同じ馬車に乗せられ、道中、気が気ではなかった。けれどトラドは、一度も俺を襲おうとしなかった。それどころか礼儀正しく御者台に座っていて、客車の方には全く顔を出さなかった。

 今も、俺を長屋に送り届けるや、即座に屋敷へ戻ろうとしている。


 シュテファンが大あくびをしながら、別棟にある自分の家に帰っていくのが見えた。

「トラド。君は俺を吸血鬼にするんじゃなかったの?」

 御者台へ登ったトラドに近づき、小声で尋ねた。

「ええ、その時が参りましたなら」

 御者台から、トラドの気の滅入るような暗い声が降ってくる。

「今が、その時なのでは?」


 重ねて問う。だって俺は、ヴァーツァに追い出された。

 憂鬱そうな声が返ってきた。


「何をおっしゃいますやら。シグモント様は依然、ご主人様のものでいらっしゃいます。トラドには、貴方様の両肩に、ご主人様の手が掛かっているのが見えます」

「怖っ!」


 思わず自分の両肩を確認してしまった。もちろんそこに、ヴァーツァの手なんか、見当たらない。

 というか、ヴァーツァは俺を追い払った。それはもう、完全に。


 そもそも二人の間には何もなかったのだけれど。

 けど、それは何の慰めにもならない。


「比喩でございます。私は、強引に貴方を仲間に引きずり込んで、ご主人様の不興を買いたくありません。そんな恐ろしいこと……ゾンビ共にも叱られます」


 ゾンビというのは、カルダンヌ家の使用人たちのことだ。


「彼らが平和に暮らせるのは、貴方様がいらっしゃるからこそ。カルダンヌ公爵の御心を鎮めるのは、シグモント様にしかできません。それなのに、公爵様の手から貴方を奪い取るなど、一介の吸血鬼にできるわけがありません」


 謎のような言葉を残すと、トラドは馬に鞭を宛てた。


「それでは、また、シグモント様。いずれ私と同じ命を生きられますよう、どうか神にお祈りを捧げておいてください」

「神だって?」


 なぜここに神が? というか、吸血鬼が神に祈れ、だって?


「わたくしが祈ると嫌がられますから」

「君は、他力本願の権化だね」


 俺の皮肉が聞こえたかどうか。

 トラドが馬に鞭をくれ、彼を乗せた馬車はあっという間に、夜の闇に紛れて行った。








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