第18話 あーん
バタイユの薬湯が効いたのだろう。
朝になると、ヴァーツァの熱は下がっていた。
そしてやはり、俺はどうしても、ヴァーツァを置いて、館を去ることができなかった。
ここは孤島だが、入江にはボートが係留されている。割と近くに半島も見える。脱走は簡単だと思われた。けれど、俺にはできなかった。
具合の悪いヴァーツァを置き去りに、島を出ることが。
正直、ヴァーツァの看病は大変だった。こんなわがままな患者はみたことがない。
エシェック村の公会堂と同じように、台所には、大量の保存食が保管されていた。フクロモモンガのメルルが眷属を動員して、あちこちから運んできたらしい。
死骸だった時を思い出すとちょっと引くけど、メルルたちが持ちこんだのは、缶詰などの密封された加工食品ばかりだ。どこかから盗んできたのではないかという疑いが一瞬胸をよぎったが、そこは聞かないことにした。
自慢じゃないが、一人暮らしをしていたんだ。料理くらいできる。
ヴァーツァは出血をしたわけだから、タンパク質が必要だ。けれど、食欲はあるのかな?
豆の缶詰をみつけた。同じく缶詰のソーセージと一緒に煮込んでスープを作る。
ヴァーツァはずっとガラスの箱で寝ていて、長い間、まともに食事をしていない。消化のいいものを食べさせてあげたい。
果物の缶詰も開けた。食べやすい大きさにカットして、ゼラチンで固める。これならするりと喉を通るだろう。
「朝食の時間です」
湯気の立つ皿を盆に乗せ、そっとドアを開ける。
「要らない」
起き抜けで食欲がないようだ。
「そんなこと言わないで。一生懸命作ったんだから」
食べて貰えなかったら食材が無駄になる。清貧がモットーの俺としては、耐えられないことだ。
起き抜けで、ヴァーツァの髪は乱れていた。
……触りたい。
だめだ。何を考えてるんだ、俺は。
「シグが作ったのか?」
ベッドから尊大な声が聞こえた。
「はい」
「ふうん。なら食べてもいい。ただし、君が食べさせてくれ」
「へ?」
「あーんしてほしい」
「あーん? ですか?」
「そうしてくれないと食べない」
ちょっとどうしていいのかわからない。
「別に、今食べなくてもいいんです。食べたくなったら食べて下さい」
盆をベッドサイドテーブルに置いて立ち去ろうとした。熱はすっかり下がっている。一人で食べられないという事はないと思う。
「待て」
立ち去ろうとすると呼び止められた。
「俺は君の作ったスープが欲しい。あーんをするのだ」
「自分で食べれるでしょ」
頬が赤らむのを感じる。得体のしれない男に、自分の気持ちを悟られたくない。
紫の瞳が青みを帯びた。
「優しくしてほしい」
自分の魅力を知っている男は、どうやら泣き落とし作戦に出たようだ。
「俺は大怪我をして死にかけた。まだ完全に治っていない。だから、どうか優しくしてくれ」
「うーーーーー」
俺は低く唸った。
「そもそも君が余計なことをしなければ、俺はまだ、療養箱の中で眠っていたはずだ。君が俺を起こしたんだよな。眠っている俺にキ、」
「やります! あーんでもなんでもやりますから!」
悲鳴のように叫び、俺はスプーンを手に取った。
「はい。あーん」
棒読みのようだ。わざとやっているわけではない。声の震えを隠すにはそれしかない。
「あーーーん」
言いながらヴァーツァは、大きく口を開けた。
差し出したスプーンがプルプル震える。
「あっ! ごめんなさい!」
震えるスプーンがヴァーツァの頬を直撃した。
「構わない」
ヴァーツァは自分で頬を拭った。次の瞬間、彼はスプーンを握った俺の手を取り、ぺろりと嘗めた。
「な、なにをするんです!」
「君の指にもスープが飛んだから」
けろりとしてヴァーツァが答えた。
「こ、困ります。こいうことは……」
手の震えがひどくなる。
「なんで? スープを無駄にしたらいけない。それに、君の手に付いたスープはとてもおいしかった」
「……」
揶揄われているに違いないと思った。
気を取り直してスプーンを握り直し、ヴァーツァの口に突っ込んだ。今度は、見事口の中に入れることができた。ヴァーツァは不満そうに、押し込まれた青エンドウを飲み込んだ。
スープを完食したヴァーツァはおかわりを要求した。鍋に残しておいた分まで食べ尽くし、ようやくデザートのゼリーに移った。
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