第15話 執事の狩り
「だ、誰だ!」
灯りを向ける。暗がりに青白い顔がぼう、っと浮かび上がった。
「執事にございます。トラドとお呼びください」
眼窩が深く落ちくぼみ、犬歯が異様に大きく見える。
「地下室へ行かれましたか?」
「……いや。ドアが開いてるか確かめただけ。気まぐれで」
精一杯の嘘を重ねる。たくさんの柩を見たことバレたら、俺は殺されるのだろうか。
「湿気や虫が入ります。扉はきちんとお閉め下さい」
俺が飛び出してきたばかりのドアを、トラドは、ぎぎぎ、と音を立てて閉めた。
特に疑っている風もない。よかった。執事は俺が地下室から出てきたところを見てはいなかったようだ。
「何かご覧になりましたか?」
背中を向けたまま尋ねる。
「なっ、何もっ!」
精一杯、否定した。たくさんの棺桶を見ました、などと言えるわけがない。
「それはようございました」
ドアを施錠し、執事は振り返った。最初から鍵をかけておいてくれたらよかったのに、と思った。
不意に執事がすり寄って来た。
「とてもいい匂いだ。シグモント様。あなたはとてもいい匂いを放っていらっしゃる」
「あ……」
もしかして、地下室の死体の匂いが移ったとか?
ぞっとした。
そして、激しく自分を呪った。そもそもこの館を逃げ出すつもりだったのに、のこのこ地下室へ行くなんて。
「ところで、このような夜半にどちらへ?」
何心無いという風に執事が尋ねる。
「すっ、少し外の空気が吸いたくて」
「それはようございました。幸い私の勤務時間は終わりました。よかったら、御一緒しましょうか?」
「いやっ、いや、いい」
力いっぱい断った。早くどこかへ行って欲しい。
「ご遠慮なさらずとも」
「貴方には貴方の用があるでしょう?」
トラドが自分のことに気持ちをそらせてくれることを願った。
「はい。これから狩りに参ります」
「ふ、ふうん」
外出するなら好都合だ。一度部屋に戻って、出直せばいい。地下室へ寄り道した分のヘマも取り戻せるというものだ。
それにしても……。
「狩り? こんな夜中に?」
思わず問いかけると、トラドはにたりと笑った。
「さようでございます。ですが、外出の必要はなくなりました。こんな素晴らしい獲物が間近にございましたゆえ」
手首をがっちりと握り込まれた。電光石火の速さで俺の首筋に顔を埋めてくる。逃げる暇もなかった。
……獲物?
「ああ、いい匂いだ」
まるで犬のように鼻をクンクン鳴らしている。
「あの、ちょっと、執事さん?」
「トラドにございます」
「それじゃ、トラドさん。いったい……」
「何をしている!」
雷のような声が聞こえた。比喩ではなく、本当にあたりの空気がびりびり震えた。
目の前に立ちはだかっていたのは、ヴァーツァ・カルダンヌ公だった。
どうしてこの家の人間は気配もなく現れるのか。心臓に悪いこと、この上もない。
「これは、公爵様」
トラドが俺から離れた。そんな執事を、ヴァーツァがぎろりと睨む。
「シグは俺の客だ。手を出すなと言ったろ?」
「申し訳ございません。あまりに良い匂いを放っておいででしたので」
「それは認める」
俺は、コロンなどはつけていない。俺の収入では、そんなものを買う余裕などない。主従二人の会話は、全くもって意味不明だ。
ヴァーツァが俺に向き直った。深いため息をつく。
「君に手を出そうとするなんて、本来ならトラドは処分しなければならない。けれど、今、俺の力は弱まっている。思うように使用人を操ることができない。トラドは自ら形を保てる貴重な人材だ。不始末があったからといって、消すわけにはいかないんだ」
消す、だって?
よくわからないけど、なんだか物騒なことを口走っている。
横目で執事を見ると、さっきまでの勢いはどこへやら、しょんぼりと項垂れてしまっている。無表情だけど、見方によっては恐怖に震えているようにも見える。
少し、気の毒になった。
「トラドさんは何も悪いことはしていません。僕は迷惑なんか少しも被っていない」
そう言うと、トラドははっとしたように俺を見た。どのみちこの人は、俺が地下室へ下りたとは思っていない。安心しろ、という風に頷いて見せた。
表情の乏しいトラドの顔に、感謝の色が浮かんだ……ような気がする。
「そうか。君がそういうのならいいんだ」
ヴァーツァがため息をついた。
「確かに今回は、トラドだけが悪いわけじゃない。彼はむしろ、素直に流されただけだ。罪は君にある」
「はい?」
襲われかけたのは俺だぞ? その俺に一体、何の罪があるというんだ?
「頼むからシグ。フェロモンを垂れ流すのは止めてくれ」
「?」
フェロモン? なんだそれは。俺は何かを垂れ流した覚えはないぞ。
しかし、抗議をする暇はなかった。言い終わるなりヴァーツァは、ぐずぐずとその場に崩れ落ちてしまったからだ。
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