ちょっとの不幸
此糸桜樺
第1話
私は自分の人生を悲観していた。何が幸せで、何が普通で、何が正しいのか。私にはとんと検討がつかなかった。
母は優しい人だった。育児放棄をしない人だった。暴力を振るわない人だった。ギャンブルをしない人だった。
私はたしかに愛されていた。
祖母は優しい人だった。いじめをしない人だった。規律を破らない人だった。金遣いの荒くない人だった。
私はたしかに愛されていた。
祖父は優しい人だった。暴力を振るわない人だった。なんでもないときに罵詈雑言を吐かない人だった。近所トラブルを起こさない人だった。
私はたしかに愛されていた。
ただ、幸せであるという実感はあまりなかった。
私が相談しても一切興味を向けようとしない母。自分の思い通りにならなければ怒る祖母。公衆の場で公然と差別発言を繰り返す祖父。
誰にだって長所があれば短所もある。このくらいのことは世間では普通なのかもしれない。世の人から「もっと大変な家もあるんだぞ」と非難されるかもしれない。
だから私は口をつぐむ。
友達には、家であった楽しい出来事だけを話す。知り合いには、家族間で起こった面白い思い出だけを話す。
どんな文句も、ちょっとした愚痴も、全部全部笑い話。
お母さんがさぁ、進路の相談に全然のってくれないんだよね。やんなっちゃうよ。
おばあちゃんがね、私の部屋を勝手に漁ってぐちゃぐちゃにしちゃったの。もう困っちゃうや。
おじいちゃんがさ、酒に酔った勢いで、鎌でドア壊したことあるんだ。酒癖悪いって大変。
私は笑う。相手も笑う。
これでいいのだ、と思うと少し安心する。
「ねえ、お父さんはどんな人なの?」
よく聞かれる。当たり前だろう。母の話はよくするのに、父の話だけ不自然にも全く話さないなんて。
私に父はいない。私が小学校に上がると同時に離婚したからだ。
私は迷う。言うべきか、言わないべきか。
ただ、その場の空気が気まずくなるのは嫌だった。
「……そうだね。優しい人だよ」
私が父について話せることは少ない。覚えていないからだ。どんな顔だったかも、どんな人だったかも分からない。
しかし、私は、無理矢理にでも保育園までの記憶を引っ張り出して言う。
「……えっとね、たくさん遊んでくれたよ」
私の不幸は激痛じゃない。ささくれのようにちょっとだけ嫌で、ちょっとだけ気になる──そんな不幸だ。
ささくれは、すぐにいなくなる。
ささくれは、とても小さい。
ささくれは、そこまで大変じゃない。
治ったと思ったらまたできる。消えたと思ったらまたそこにいる。邪魔くさい不幸はいつまでも心の隅で、私の幸福の邪魔をする。
私はちょっとの不幸を持って生きていく。この不幸を人に理解されたいとも、知ってもらいたいとも思わない。
だって多分、この不幸のせいで死ぬわけじゃないんだから。
ちょっとの不幸 此糸桜樺 @Kabazakura
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