第4話

「お、おい、泣くなよ」

 後から思い返すと、もう少し優しい言葉をかければよかったと思う。だが、このときの元太郎にはこれが精いっぱいだったのだ。

 くすん、くすんと、見知らぬ人間の女は泣き続ける。


「なあ、泣いてないで理由を言ってよ」

 責めるつもりなんかないのに、女は徐々に後ろに下がる。

「危ない!」

 咄嗟に、元太郎は腕を伸ばした。弾が当たって位置がずれたシャンプーが、女に向かって落ちてきたのだ。

「きゃああ!」

 落ちてきたシャンプーにではなく、伸ばされた元太郎の腕に驚いたようだ。

「ごめん、ごめん。びっくりさせるつもりはなかったんだよ」

 なるべく優しく言ってみたが、彼女はひゅっとシャンプー台の脚の向こうに隠れてしまった。


 困ったな。

 このまま見知らぬ女を店に置いておくわけにはいかない。出て行ってもらわなくては。

 なぜなら。

 もうすぐ父親が帰って来る。

 父は大嫌いなのだ、人間の女が。

 少し落ち着いたら出てくるだろう。

 

 元太郎は片付けに戻った。とりあえず箒で散らかった硝子の破片を集める。それを塵取りで掬って表のゴミ箱に入れる。店のシンボルであるサンポールの、コンセントの切れた場所を探す。

 そうするうち、商店街の人たちが集まって来た。常連さんもいる。

「掃除するには遅い時間だぞ」

 とか、

「今日はヒマか?」

 などと声をかけてくる。そのたびに、店の中の惨状に驚いてくれる。


「誰にやられた?」

「警察に電話したのか?」

 元太郎はようやく通報していなかったことに気づいた。

 スマホを取り上げて、警察に電話しようとした瞬間、店の中から、

「やめてー!」

と叫ぶ声がした。


「誰の声だ?」

 店の前に集まっている野次馬の中から声が上る。

「な、なんでもないんだよ」

 慌てて元太郎は言った。

 すると、追い打ちをかけるように、

「絶対、やめて!」

と、ふたたび女が叫ぶ。

「やっぱりなんか声が聞こえるぞ」

 スマホをズボンのポケットにしまい、元太郎は店の中へ駆け込んだ。


 シャンプー台の脚の陰から出てきた女が、こちらを見つめて立っていた。もう泣いてはいないが、情けない表情をしている。


「お願い、通報しないで」

「でも」

「困るの、ほんとに」


 その小さな顔の小さな目から、ふたたび涙が溢れそうになるのを見て、元太郎は承諾しないではいられなくなった。

「――わかった、わかったよ」

「ほんと?」

 女の顔に、花が開くように笑顔が広がる。

 通報なんかしない。しなくたっていい。元太郎は心の底からそう思った。


「だけど――狙われたんだよね?」

 何か悪いことをして追われているのかもしれない。黒いワゴン車は明らかに人間の町の警察関係の車とは思えなかったが、どうなんだろう。自分は人間の町の警察に詳しいわけじゃない。

「捕まったら、殺される……」

「どうして――」

 すると女の目に、また涙が盛り上がった。

「どうしてって――そんなこと」

 涙声になった。まるで、小鳥が鳴いているみたいな声だ。

 

 言いたくないなら言わなくたっていい。

 同情を感じた。こんな小さな体で、何かとてつもない困難を抱えている!

だけど。

 元太郎は逡巡した。

 聞かなきゃならないんじゃないか? 見つかったら殺されるかもしれないと彼女は言っているのだ。ということは、見つけ出すまで追いかけてくるだろう。

 どこに?

 ここに、だ。この父親の大事な店に、だ。

 そう思ったとき、ドドドッと足音が響いて、父親の声が響いた。





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