第8話
「ねだっても、もらえません」
しゅるさんは繰り返して男の腕を引っ張った。
よかった。とりあえず涼くんの時計は無事だし、しゅるさんの行動はこの場の不気味さを
まだこの状況を、笑ってすませたい、すませられるんじゃないかと、春奈は自分をごまかそうとしているのだ。
ここに、幽霊なんか、いない。
そう言い聞かせている。
ところが、本物の恐怖は、このあとにやってきた。
ふわり。
春奈の横をかすめて何かが横切った。
「ぐげっ!」
自分の声とは思えない呻きに唖然とした瞬間、呻きは目の前に座る根本さんが発したものとわかった。春奈自身は声も出せない。
「ね、根本さん!」
真坂さんが叫んだ。その真坂さんの背後に――!
あー、あー!、な、何あれ……。
一人じゃない。二人、三人。
え、嘘。
ど、どういうこと?
あれは明らかに、ゆ・う・れ・い?
幽霊を見たことがあるわけじゃないから、断定はできない。でも、姿全体が灰色でどこからどこまでが身体の輪郭線かがはっきりしてなくて、それで人の姿をしているのを幽霊っていうんじゃ?
咄嗟に、春奈は体を屈めて、テーブルの下を覗いた。
こんなときに、こういう行動ができるから、マルに、
「春奈はタダじゃ起きないタイプだよね」
などと言われてしまうのかもしれない。自分ではそんなつもりはないが、
やられっぱなしというのは我慢できない。ちょっと、この状況には関係ないけど。
足は、あった。
ということは幽霊じゃない?
そのとき!
冷たい手が春奈の左手に触れた。湿った氷のような冷たさだ。
「これ、ちょーだい」
若い女の顔が目の前に現れた。女は春奈の薬指の指輪に指先で触れようとしている。
「ギャーッ!!!」
春奈は立ち上がり、部屋の手口に駆け出した。
まわりのことは考えなかった。考える余裕なんかあるはずない。
「待って!」
根本さんかチュンさんか、金切り声がしたが、構ってはいられない。
ところが、春奈はドアの前でしゅるさんに引き止められた。さっきまで佇んでいた場所からどうやってドアの前まで来たのか、わからない。
わからないことだらけ!
だけど、わからなくたっていい。
ここから逃げ出せれば、何も知らなくていい。
「帰らないで下さい」
「む、無理です、ごめんなさい!」
しゅるさんはドアの前に立つ。
「どいて!」「どいてってば!」
チュンさんと根本さんが怒鳴った。こちらは半分転げながら、部屋を横切って来た。
「どけよ!」
普段は優しい涼くんが怒鳴った。やっぱり男だ。怒鳴ると迫力がある。
ちょっと遅れて真坂さんも駆け寄ってきた。
真坂さんはドアの前まで来ると、
「イタタタタァッ!」
と叫んで転んでしまう。
「だいじょうぶですか」
心配したのは、しゅるさんだった。春奈たちにそんな余裕はない。
真坂さんは恐怖で顔を引き攣らせ、ただ腰を抑える。
「相談があります」
しゅるさんが、春奈に顔を向けた。
「相談?」
いったいこの人は何を言っているのか。
この場にそぐわない言葉に、春奈は勢いを削がれる。
「わたしたちの悩み、聞いてください」
「わたしたち?」
春奈には後ろを振り返る勇気はなかった。
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