第八章 彼との約束③


 思い出されるのはアメーリアに聞いたグレンの伝言。


『約束を忘れないでくれ』


 思い出されるのはイヴァンジェリンの言葉。


『今、グレンを帰しても、わたくしたちが今いるこの未来に辿り着けないということよ。まだ足りないものがある。だからまだ帰せない。帰れない』

『でも、この旅自体はお前がいなくても成立したと思わない?』

『グレンの経験では全員無事だったかもしれないけれど、下手をすれば全員命を落とす可能性もある。そんな危険な旅に、『自分の経験した旅には同行していた』という理由だけで愛する恋人を同伴させるものなの? わたくしが知るグレンはそういう男ではなかったように思えたけれど』


 思い出されるのはルーカスの言葉。


『とてもじゃないが、単独で大型魔獣を討伐したり、一人で地図外アネクメネに向かって俺らの旅のお膳立てを出来るようなレベルになれるとは思えねえ。そんな化け物じみた雰囲気を感じねえんだよ』

『金が稼げなきゃ、今目の前にいるアビーが死ぬ。だから、俺はがむしゃらに金を稼げるように、強くならなきゃいけなかった。一ヶ月の薬代がいくらかかると思う? 普通の稼ぎ方してちゃ、絶対に金が足りねえ。誰よりも強くなって、商人から高い報酬を引き出せるようにならなきゃなんねえ。二の足なんて踏んでる暇はなかった。オレがアイツに言った信念っていうのは、そういう類のもんだ。絶対に譲れない、絶対に曲げられないもんのことだ。大切な人のために戦うってのは結構だけどな。じゃあ、アイツが強くならなきゃ大切な人を守れないっていうのか? 大切な人のために戦うっていうのは、具体的になんと戦うんだ? 俺とアビーには他に身内がいなかった。助けてくれる奴なんていない。俺が稼がなきゃいけなかった。だからがむしゃらになれた。俺が言いたいのはそういうことだよ』


 そして、出発前夜にグレンがした約束。


『何があっても、絶対に俺は君の下へ戻って来る――どんな危険に陥っても、どれほど絶望的な状況でも』


 あの晩、グレンは約束してくれた。必ず戻ってくることを。それはいったい、どこからだ。それは地図外アネクメネから、じゃない。十二年前の過去から、必ず帰って来ると約束してくれたのだ。


 でも、十二年前の世界でグレンは危険に陥っていない。絶望的な状況でもない。なら、彼の言う『どんなに危険に陥っても、どれほど絶望的な状況でも』というのが何を指すのか。


 それはきっと、今この瞬間だ。


 グレンではなく、リタ達のことだ。黒竜の襲撃という危険に陥り、死を避けられない絶望的な状況を指したのだ。グレンはあの晩、この状況を打開するために戻ってくると約束してくれたのだ。


「――それでも」


 グレンが口を開く。リタは意識を目の前の十二歳のグレンに戻す。


 彼は苦しそうな表情を浮かべている。それでも、以前のようにただ自身の弱さに打ちひしがれるだけの子供ではなくなっていた。


「それでも、何もしないなんて出来ない! このままじゃ、リタだけじゃない、全員死ぬんだぞ! リタはそれでも良いって言うのかよ!」


 ――良いわけがない。


 このまま皆死んでしまうのも、グレンが死ぬのも、自分が死ぬのも嫌だ。死を受け入れたくなんてない。


 本当は前世で死ぬのも嫌だった。だって、前世のリタはまだ大学生で、二十年ちょっとしか生きていなかった。


 もうすぐ大学を卒業して、社会人になって、いずれ結婚して子供を産んで、そんな当たり前の未来を過ごしたかった。初任給で両親にプレゼントを買いたかったし、自由に使えるお金が増えたら買いたいものもいっぱいあった。自分が両親どころか祖父母より先に死ぬ未来なんて想像していなかった。


 今だって死にたくない。


 故郷に残した両親にだって、酒場の女将にもさよならをしていない。今のリタだってまだ十代だ。前世に続いて、今世でもこんな早死になんてしたくない。でも、そんなリタの我儘のために幼い子供グレンに苦労を背負わせたくなかった。だから、黒竜に攫われたとき、大怪我を負ったとき、彼に自分を置いていけと言ったのだ。――子供の彼に、リタを助けられないと思っていたから。


『だから、俺のことを信じてくれ。絶対に帰って来るから』


 リタは自分にとってのヒーローだったグレンを信じていた。でも、目の前の、何も知らないグレンのことは信じていなかった。彼は子供で弱いから、庇護する対象だと思っていた。


 でもあのとき、グレンが信じてくれと言ったのは、自分自身のことじゃない。――大人のグレンではなく、子供のグレンを信じてくれと言ったのだ。


 グレンの悲痛な叫びが響く。


「俺は皆に生きていてほしい。こんなところで死んでほしくないんだ」


 リタは目を閉じ、大きく息を吸う。覚悟を決め、口を開いた。


「――グレンには無理よ」


 その言葉に彼はどれほど傷つくだろう。そのことが分かっていながらも、リタは言葉を続けた。


「だって、今のグレンに勝てるわけないじゃない。あんな強い魔獣を倒すなんて無理よ。剣を渡して、戦いに行ったって、殺されるのが目に見えてる。今のグレンに私たちは助けられない。絶対に無理だわ」


 ひどい言葉を投げかけられても、グレンはもう目を背けなかった。


 「だから」と、リタは彼に過酷な未来を要求した。


「今の貴方じゃなくて、十二年後の貴方が私たちを助けて」


 グレンが目を見開く。


「二十四歳の貴方は大型魔獣を一人で倒せて、一人で地図外アネクメネを踏破出来るだけの実力があるんでしょ!? だから、過去に戻って、強くなって、未来の私たちを助けて!」


 彼にもリタの言いたいことが伝わったらしい。戸惑ったような声をあげる。


「俺が……?」

「そうよ!」


 この絶望的な状況を変えられるのはグレンだけだ。騎士団で最強と謳われ、英雄にまで祀り上げられた二十四歳のグレンなら、この状況を打破できる。それは目の前のグレンにとっては、十二年後の彼自身だ。そして、大人のグレンをここに呼び戻すには、因果を繋げる必要がある。今のグレン自身に、十二年後に絶対に強くならないといけない確固たる理由を作らねばならないのだ。


 リタはそのために、ここにいるのだ。必死に声を張り上げる。


「自信があるとかないとか関係ないの。私たちを助けられるのは貴方だけなのよ。貴方が強くならないと、ここにいる全員が死んでしまう。だから、そのためにこの十二年間、努力を重ねて。それで私たち全員を助けて!!」


 それはどれほど辛い道のりなのだろう。


 大人になったグレンはその過酷さの片鱗をリタに見せはしなかった。でも、ルーカスの話を聞いた今なら分かる。子供のグレンが『英雄』と呼ばれるほどの大人のグレンの強さを手に入れるのは困難な道だ。その努力のために、他のものを犠牲にしないといけないかもしれない。本来なら、こんなことを十二歳の子供に言うのはひどい話だ。


 それでも、リタは言葉をとめなかった。


「私、待ってるから……っ、信じてるから!」


 数日前に伝えた「信じてる」は、グレンを励ます意味合いが強かった。でも、今は違う。本心から信じようと思った。子供のグレンを。いずれ、大人になり、昔の自分を信じてほしいと言った未来の彼の言葉どおりに。


 目をつぶり、大声で叫ぶ。


「私を助けて!!」

 


 ――瞬間、空間が歪んだ気がした。


 燃え盛るせいで、空気は熱い。木々が燃える音と、イヴァンジェリンたちの戦闘音が周囲に響いている。それが消えた。しかし、それは刹那のこと。気のせいと思ってしまうほど瞬く間のこと。


 リタの肩に、誰かの手が触れる。


「リタ」


 落ちてきたのは大人びた声だ。ここ一ヶ月で聞きなれた、どこか幼さのの残る高い声じゃない。


 リタは目を開ける。


「剣を渡してくれ」


 ――目的が果たされたことを知った。


 雫がリタの頬を伝う。今度は抵抗しなかった。リタは素直に剣を持ち主に差し出す。彼は手慣れた動作で鞘から剣を引き抜く。


 こちらを見る緑色の瞳はどこか懐かしい、でもよく知ったものだ。その表情には普段見る優しげなものではなく、真剣なものが浮かぶ。


「後は任せて」


 ようやく帰還した『英雄』と呼ばれる男は、そう言うと黒竜へと駆け出していった。

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