第八章 彼との約束①
それは夜遅くのことだった。
リタは既に寝台で眠っていた。それを扉を叩かれ、起こされたのだ。リタは眠いまぶたをこすりながら、玄関に向かう。
「どなたですか?」
こんな真夜中に人を訪ねるなんて非常識極まりない。それでも、誰かが緊急事態を告げに来た可能性がある。リタは鍵を開けることなく、眠気の隠しきれない声で対応をする。
「こんな時間にすまない。俺だ。グレンだ」
その声に眠気が少し飛ぶ。聞き間違えようのない恋人の声だ。
不審に思いつつも、リタはゆっくりと扉を開ける。廊下に立っていたのはグレン本人だった。リタは首を傾げる。
「どうしたの、グレン? こんな遅い時間に」
「……リタに、どうしても会いたくて」
普段穏やかな笑みを浮かべることの多い彼の表情が、今は妙に強張っている。平時であれば愛の表現ともとれる言葉だが、彼から漂う緊張感がそうではないことを表していた。
「グレン?」
リタは恋人の頬に手を伸ばす。だが、その手が彼に触れることはなかった。その前に、グレンに抱きしめられたからだ。
「――リタ」
ぎゅっと、腕に力が籠る。眠気は完全に吹っ飛んでいた。恥ずかしさや嬉しさより、混乱が上回る。
「グレン? 何かあった?」
戸惑いながらリタが訊ねると、グレンは体を離した。辛そうに視線を伏せる。
「任務を、頼まれた。明日、王都を出立する」
彼は時折、騎士団の仕事で
だから、まだこのときのリタは重大さを理解していなかった。能天気な言葉を口にする。
「そうなんだ。いってらっしゃい。今回はどこに行くの?」
最近大噴火が起きた北部か。はたまた、魔獣も出没する南部か。――しかし、返ってきたのは予想外の言葉だった。
「――
それは普段聞きなれない言葉だった。
「え?」
「
「あはは、
だから、すぐにリタはグレンの言っていることが本当だと思えなかった。
リタが笑い飛ばしたにも関わらず、グレンは何も言わなかった。先ほどと同じ、苦悩に満ちた表情を浮かべるだけだ。
そこでようやく、リタはグレンが冗談を言っているわけじゃないことに気づいた。
「……嘘だよね?」
騎士は言ってしまえば、前世でいう警察や自衛官と一緒だ。命がけの仕事も頼まれる。特にこの世界は前世と違い、危険な存在も多くある。人道的、なんて言葉もない。人の命は軽く扱われやすい。
それでも、リタは信じたくなかった。
まさか、身近な人が――自分の大好きな人が、帰ってこれるかも分からない危険な場所に出向くことになるなんて想像もしていなかった。
「これは必要なことなんだ」
それは言い聞かせるような口調だった。
「俺が行かないと、……大勢の人が困ることになる」
「嘘だ!」
信じたくなくて、リタは大声をあげた。近所迷惑であることなんて頭からすっかり抜けていた。
「冗談だって言ってよ!」
今度はリタがグレンに抱き着く。彼は泣きじゃくる恋人を慰めるように頭を撫でてくれる。しかし、リタが望む言葉は決してくれなかった。
どれくらいそうしていただろう。抱きしめてくれる腕の力も強い。きっと、グレンも本当はずっとそうしたいと思ってくれていたに違いない。
でも、グレンがリタを訪ねに来たのは別れを告げるためだ。だから、この時間には必ず、終わりが来る。
リタが落ち着くのを確認すると、グレンはもう一度リタの体を離す。そして、視線を合わせるように屈み、リタの手を強く握りしめる。
「――約束するから」
リタは真っすぐにこちらを見つめる恋人を見つめ返す。
「何があっても、絶対に俺は君の下へ戻って来る。どんな危険に陥っても、どれほど絶望的な状況でも――だから、俺のことを信じてくれ。絶対に帰って来るから」
冷静に考えれば、それは守られるかどうか保証のない約束だ。でも、リタは彼が誓ってくれた言葉にすがりつきたかった。
「私、待ってるから」
涙が頬を伝う。
「グレンのこと、信じてるから」
グレンの顔が近づく。リタは目を閉じる。
――別れのキスはひどく悲しい味がした。
❈
本当に行きに旅したのと同じ
誰も話題に出さないが、未だグレンは元に戻らない。
イヴァンジェリンが「因果さえ繋がれば元に戻る」と言っていた。それにも関わらず、今も子供のグレンのままというのは自分たちがいる現在は、グレンの過去と繋がっていないことを示す。そして時間が経てば経つほど、乖離が進んでいっているのではないかと不安になる。
(もしこのまま戻らなかったら)
その場合、今リタ達がいる現在はどうなるのだろう。
タイムパラドックスが起き、今現在が失われるのか、はたまたこの世界には複数の平行世界があって『グレンが戻らなかった世界』として続いていくのだろうか。誰にもその答えは分からない。
一つ、確実なのは今の現状に一番不安を抱えているのはグレン本人だろうという点だ。戻れないのは自分自身のせい、と思っているのかもしれない。出発をしてからずっとグレンの表情は暗く、口数も少ない。
「グレン」
リタは前方を歩くグレンに声をかける。緩慢な動きで彼は振り返る。
「喉乾いてない? さっきから全然水分補給してないじゃない」
そう言って、リタは自身の水筒を差し出す。イヴァンジェリンのおかげで道中で水源も確保出来ている。水を節約する必要もない。グレンは遠慮がちに水筒を受け取ると、中身に口をつける。
「皆で歩くなんて、遠足みたいで楽しいね」
「えんそく?」
訊ね返されてから気づく。――そうだ。前世の話は子供のグレンは知らない。大人のグレンには色々昔の話もしたが、今の彼に言っても伝わらないのだ。「ええと」とリタは誤魔化す。
「そう、
「……ない」
「楽しいのよ。グレンも行ってみるといいよ。まあ、今も外でご飯食べて、
リタは苦笑するが、グレンは笑ってくれなかった。
水筒を受け取ったリタは、グレンの横を歩き出す。しばらくは無言で歩き続ける。
「ねえ、もし元に戻らなかったら、一緒に行こっか」
その言葉にグレンの足が止まった。リタは気づかず数歩進んでしまった。立ち止まり、グレンを振り返る。
彼は泣きそうな顔でこちらを見ていた。
「元に戻らなかったらって……それでいいのかよ」
「……まあ、しょうがないんじゃないかな」
本当は良くない。でも、しょうがないと思うのも本当だ。
「国の呪いは解けた。聖女も国に戻った。この件についてはグレンが悪いわけじゃないんだしさ。前向きに生きていってもいいと思うんだよね」
「……でも、それだと、リタは大人の俺に会えないだろ」
リタは目を伏せる。
「別れはいつか必ず訪れるものでしょう?」
恋人として、グレンと一緒に過ごす日々は楽しかった。でも、同時に抱いていたのはいつかこの関係が終わってしまう不安だ。
裕福で、騎士の彼は結婚して、子供を為す義務がある。ただの市民であるリタはグレンに嫁ぐことは出来ない。いずれ、別れが来るのは決まっていたことだ。
「それが少し早く来ただけよ」
突然グレンが距離を詰めてきた。腕を掴まれる。
「何で、いつもリタはそうなんだ!」
その表情は睨むように険しい。
「黒竜に連れ去られて大怪我を負ったときも、置いてけって……死を受け入れようとして……っ! 何でそうやって、何でも受け入れようとするんだよ! 嫌なことは嫌って言えよ」
「……グレン」
「お前だって大人の俺に会いたいだろ! 絶対、大人の俺だって思ってる!! リタに会いたいって、十二年前の世界で元に戻れるのを待ってるはずだ!!」
リタは目を見開く。
――そうだ。
リタは自分や目の前のグレンのことばかり考えていたが、大人のグレンはどう思っているのだろう。
十二年前のアークライト邸にいる彼は今、何を考えているのだろう。また、リタと再会できることを待ち望んでいるのだろうか。きっと、そのはずだ。
だって、グレンはリタに約束をしてくれた。その言葉は今も覚えている。
――何があっても、絶対に俺は君の下へ戻って来る。どんな危険に陥っても、どれほど絶望的な状況でも。だから、俺のことを信じてくれ。
「――絶対に帰って来るから」
グレンはそう言い残し、王都を旅立っていった。リタはその約束を心の拠り所にした。
だが、思い返してみれば、何かおかしくないだろうか。
だって、大人のグレンは自分が生還することを知っている。十二年前のグレンは無事、元の時間に戻れた。それが意味するのは大人のグレンも元に戻ったということだ。それなのに、何故あれほど自身が戻って来るか確証のないような言い方をしたのだろう。
あの時は単純に危険な
「だから――!」
グレンが続けて何かを言おうとした瞬間、後ろから声が響いた。
「お前達、来なさい!!」
リタは振り返る。
声を張り上げたのはイヴァンジェリンだ。その表情はひどく焦ったものだ。立ち止まったせいで距離が離れてしまっていたリタとグレン、そして殿のエリスが指示通り王女の下へ駆け寄る。
「全員、戦闘準備に入って。――まずいわ。まさか、こんなことになるなんて」
その場に緊張が走る。だが、状況が把握できないのも事実だ。ルーカスが「何が起きる?」と訊ねる。
「
空に突如、黒い影が落ちたのはその直後だった。
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