第四章 黒竜の襲来⑥


 意識が遠のく。

 遠くで「リタ」と優しく呼んでくれる懐かしい声を聞いた気がする。



 ❈


 

 グレンは地図外アネクメネの森の中を彷徨っていた。


 安全な場所を見つけて、リタを休ませる――その目的で森を歩き続けているが、一向に隠れられそうな場所が見つからない。


 グレンはまだ十二歳だ。少なくとも自分ではそう思っている。しかし、実際には記憶を失った結果、十二歳まで退行した二十四歳の大人だ。鏡に映る自分も十二年後の未来の自分で、違和感しかなかった。


 それでも今は大人の肉体であることが有難かった。十二歳のグレンではリタと荷物を背負い続けることは出来なかっただろう。鍛え上げられた肉体だからこそ、こうして森を長い時間走り続けられているのだ。


 しかし、いくらグレンの体力に余裕があっても、背負うリタの限界は近い。


 先ほどまで「置いていって」「考え直して」と言っていた彼女の声が聞こえなくなった。首を動かすと、目をつむったまま動かないのが分かる。顔色もこれ以上なく悪い。グレンと違って彼女は上空から地面にたたき落とされたのだ。早急に治療をする必要がある。


 だが、こんな森の中でどう治療をすればいいというのだろう。グレンには医学の知識はない。治癒魔法だって使えない。今はまだ遭遇していないが、魔獣に遭遇したとしてもリタを守りきることも出来ないのだ。


 先ほどグレンはリタに啖呵を切った。あの時は何でもしてやると本気で思った。しかし、こうして森を彷徨っている間にどんどん無力感が増してくる。


 結局、グレンは何も出来ないのだ。例え、二十四歳のグレンがどれだけ立派でも、今のグレンは違う。こうしている間にもリタの体はどんどん冷たくなっていくのに、グレンに出来ることは何もないのだ。


 どうして、今ここにいるのが十二歳の自分なのだろうと思う。


 リタの恋人だった二十四歳の自分のままだったなら、きっと彼女を救ってあげることが出来ただろう。記憶を失う前の自分なら、きっとこんな無様な真似はしなくてすんだ。


 どうして自分は記憶を失ってしまったのだろう。どうして“地図外アネクメネの魔女”は自分の記憶を奪ってしまったのだろう。どうして、どうして、と思うけれど、その答えは出来るわけもない。グレンは見つかるかも分からない安全な場所を探して、歩き続けるしかないのだ。



『お父様のような、立派な騎士になるのよ』


 そう言ったのは母だった。


 アークライト家は古くから騎士の名家である。その中でも死んだ祖父は騎士団長まで上り詰め、多くの偉業を成し遂げた人物であった。しかし、祖父は戦で早世してしまった。祖父の子供は母一人だけ。そのため、祖父の部下だった父が母と結婚し、アークライト家の家督を継ぐことによって家を存続させた。


 グレンは亡き祖父によく似ているらしい。幼い頃から何かと『お祖父様によく似ている』という言葉をかけられた。祖父の名声は幼い頃から何度も何度も繰り返し聞かされた。だから、尊敬する祖父に似ているというのはグレンにとって誉め言葉であった。


 その言葉に全く喜べなくなったのはいつ頃だろうか。

 ある程度大きくなったグレンは父に剣を教わるようになった。しかし、グレンは両親が望むような結果を出せなかった。いつも両親は『そんなんじゃお祖父様のような立派な騎士になれない』とグレンのことを叱った。何かと祖父を引き合いに出すようになった。


 ――お祖父様はそんな失敗はしない。

 ――お祖父様はそんな弱音を言わない。

 ――お祖父様はそんな好き嫌いをしない。

 ――お祖父様はそんないつだって完璧だった。


 積み重なる言葉はどんどん重たくなって、次第にグレンは剣を持つのが嫌になった。


 かつてグレンが憧れたのは祖父の実績だ。多くの人を助けたその功績だ。祖父のように誰かを守れる存在になりたいと思ったことはあるが、祖父のような完璧な人間になりたいとは思ったことはなかった。


 でも、両親も使用人もグレンに祖父を求めてくる。アークライト家の跡継ぎの責任を果たせと求めてくる。それがどうしようもなく嫌で仕方なく、でも、そのことを口にすることも出来なかった。


 そんなある日、突然十二年後の未来に自分はいた。実際は記憶を失っただけなのだが――グレンはそう感じた。いつの間にか両親も使用人たちも老け、以前と違い、グレンを褒め称えるようになった。


『やっぱりグレンは自慢の息子だわ』

『単身地図外アネクメネに入り、魔女を討伐するなんて、お祖父様でも成しえなかったことだ』

『これでアークライト家も安泰だわ』


 全く想像の出来ないことだが、十二年後の自分は祖父以上に実力のある騎士らしい。多くの部下に慕われている。将来的に騎士団長になることも約束されている。自分がそんな存在になれていることが全く信じられなかった。そして、周囲はそんな自身を誇りに思ってくれているらしかった。


『何か思い出したことはあるか?』

『貴方の日記よ。読んでみたら何か思い出すかもしれないわ』

『今日はお坊ちゃまのお好きな珈琲を取り寄せたんです。どうぞ召し上がってください。懐かしい気持ちがしませんか?』


 記憶を失ってからのグレンに両親も使用人たちも優しい。だが、彼らはいつだって、グレンの記憶が戻ることを期待している。元の、祖父以上の実力者になったアークライト家の跡継ぎに戻ってほしいと思っているのだ。そのことが言動の端々から伝わってきて、――グレンは以前と何も変わっていないことに気づいた。


 誰もが十二歳のグレンに、別の誰かを求めている。それはかつては祖父であったり、今は二十四歳の自分であったり――彼らが求めているのは今の自分じゃない。今のグレンのことなんて誰も求めていないのだ。


 それでも、リタは今の自分を認めてくれた。


 今のままでもいいと、記憶を取り戻さなくていいと言ってくれた。彼女が愛しているのは未来のグレンなのに、今のグレンのことも認めてくれたのだ。


 アークライト家の跡継ぎでもなく、騎士団のエースでもなく、ただ一人の人間として扱ってくれているようで嬉しかった。だから、グレンは今の自分なりに頑張ろうと思ったのだ。


 でも、その結果がこれだ。


 大切だと思った女性が今にも死にかけている。なのに、グレンに出来ることがない。どうしたら彼女を助けられるのかが、グレンには分からない。


 きっと、リタの言うことが正しかったのだ。彼女を連れて歩く行為はいたずらに彼女を苦しませるだけで、彼女を救う手段にはならない。本当に彼女のことを思うなら、あそこで置いていくべきだったのだ。


 それでも、グレンはリタを見捨てていけなかった。ルーカスとはじめて顔を合わせた日、彼はグレンの事情を知ると自身の事も少し話してくれた。


『この街はそんな治安が良くねえからな。強い奴が正しくて、弱い奴は悪い。そんな場所なんだよ。だから、俺は自分の家族を守るために強くなることを選んだ』


 ルーカスには年の離れた妹がいるらしい。彼女は生まれつき身体が弱く、ほとんど寝たきりの生活を送っているらしい。妹の生活費と薬代を稼ぐために、ルーカスは危険な仕事を多く引き受けてきたと言った。


『俺自身は別に弱い奴が悪いとは思わねえけどよ。まあ、発言力がねえっていうのは確かだろうな。自分の意見を持ってても、押し通すことが出来ねえ。自分の信念を曲げねえためには強さは必要だろうな』

『……強くなれば、信念を持てるのか?』


 今のグレンには信念と呼べるものはない。なら、祖父や未来の自分のようになるにはまず強くなる必要があるのだろうか。そう思って訊ねると、ルーカスはうんうんと唸った後に『いや違うな』と答えた。


『信念があるから強くなれるんだよ。まあ、信念がなくてもある程度腕っぷしのある奴等が五万といるぜ? ただ、命と命の勝負になったら、やっぱり曲げられないものを持ってる方が強い。迷いがねえんだ』


 信念を持っている、というのはきっと正面の男にも通じるものがあるのだろう。


『お前が本当に誰よりも強くなりてえんなら、まず強くなりたい理由を見つけな。親に言われたからとかそういうんじゃない、自分自身の曲げられない信念を見つけるんだ』


 『そしたら、お前はきっと誰よりも強くなれるよ』と彼は笑って拳を突き出してきた。あの日のことはよく覚えている。


 今ならルーカスの言ったことが少しだけ分かる。


 今までグレンはどれだけ父に叱責されても、試合に負けても今ほど悔しい思いをしたことがなかった。自分が弱いから仕方ない、と言い訳をするだけだった。


 でも今は違う。今、リタが死にそうなのはグレンのせいだ。そして、そのことがどうしようもなく悔しい。何故、もっと努力をしてこなかったのかと思ってしまう。


 今、グレンが求めている情報の多くは屋敷の蔵書を漁れば見つかる内容のはずだ。大きな図書室には応急手当についても、治癒魔法についても書かれた本は置いてあった。グレンには魔法の才能がある。だが、まずは剣の実力を高めないといけないと言い訳して、勉強をしてこなかったのはグレン自身だ。


 今すぐ過去に戻りたいと思った。しっかり勉強をしておけば、リタの怪我を自分で治療することが出来たかもしれないのに。どれだけ後悔しても時間は巻き戻らない。



 空はどんどん暗くなっていく。早く休める場所を見つけないと日が暮れる。焦りばかりがどんどん募っていく。


 突然、鈴の音が響いたのはそのときだった。グレンは足を止める。


 音がしたのは左手からだった。木々の向こう、暗闇の中に有り得ないものを見た。それはどんどん近づいて来る。


「良かった。見つけられないかと心配したのですよ」


 響くのは女の声だ。ゆっくりと近づいてきたのも――女だった。


 歳は三十代後半くらいだろうか。黒髪を後ろで結わえたどこか気品の漂う婦人だった。


 もし、ここが街であれば彼女との遭遇は驚くことではない。しかし、ここは地図外アネクメネだ。人が立ち入ることのない危険地帯。ここでイヴァンジェリンたち以外の人間に会うわけがなかった。


「――お前は、誰だ」


 そう言いながらも、一つ可能性が脳裏に浮かぶ。


 グレンたちは“地図外アネクメネの魔女”の討伐を目的にここにやって来た。魔女というからには討伐対象は魔獣でも、男でもない。――女だ。今目の前にいる人物と共通項がある。


 女は無表情でこちらを見つめていた。それから「ああ、そうでしたね」と呟く。


「前回とは逆でした。貴方にとっては、これが初めましてでしたね」


 彼女はそう言うと、スカートの裾を持ち上げる。貴族の女性がするお辞儀の方法だ。グレンは目を瞠った。


「はじめまして、グレン・アークライト。私はアメーリア。この地図外アネクメネで暮らすただの平凡な女です」


 女――アメーリアからはまるで敵意を感じなかった。出会った場所がこんなところでなければ、彼女の言う「平凡な女」と言うのを信じたくなる。だが、続く言葉はグレンを絶句させるのに十分すぎる物だった。


「十九年前までは聖女をやっていましたが、王太子殿下に国を追い出されてこんな辺境で暮らしています。――“地図外アネクメネの魔女”と名乗った方が分かりやすいでしょうか?」

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