第四章 黒竜の襲来④


 突如、咆哮が轟いた。先ほど黒竜があげたのにとてもよく似ている。だが、鳴いたのは黒竜ではない。音は厚い壁越しにくぐもって聞こえた。から響いたのだ。


 周囲が大きく揺れる。


 凄まじい衝撃と共に、周囲が明るくなる。――黒竜の口から投げ飛ばされたのだ。


 真っ先に目に映ったのは青い空。そして、先ほどまでなかった木々の樹葉だ。空に投げ出されるのは今日二度目のことだ。しかし、先ほどと違い、今この場にラルフはいない。着地を手助けしてくれる存在はいないのだ。


 そのため、リタは木々の枝葉を緩衝材にしながら、地面へ重力のまま落下する。多少落下速度は落ちたが、衝撃は大きい。全身を勢いよく打ちつけたリタは身動きがとれなかった。


 遠くでは複数の劈くような魔獣の声が聞こえる。少しして、「リタ、リタ」と名前を呼ぶ声が耳元で聞こえた。身体を揺すられる。


 痛みを堪えながら目を開けると、すぐ傍にグレンの姿があった。顔には擦り傷があるが、動けている辺り、リタよりは軽傷なのだろう。


「リタ、大丈夫?」


 心底心配そうな声が響く。


「……大丈夫よ。ちょっと、着地に失敗しただけ」


 本当は全身が痛い。確実に何本かは骨が折れている。もしかしたら、内臓も傷つけてしまっているかもしれない。


 グレンにはそのことは伝えず、リタは笑みを作った。しかし、それが無理やり過ぎたのだろう。グレンは目に涙を浮かべ、今にも泣きだしそうだった。リタは話を変える。


「グレン、は? 怪我はない?」

「俺は平気。荷物が木の枝に引っかかって」


 グレンは地面に叩きつけられることはなかったらしい。見た限り普通に動いていることにホッとする。


 リタは体を起こそうとして、体の痛みに悲鳴をあげた。グレンがまた泣きそうな声でリタの名を呼ぶ。


「ど、どうしよう。何か薬とか――」


 グレンは慌てたように荷物を漁り始めるが、リタは知っている。最低限の薬は持って来ているが、普通の薬ではリタの怪我を治すことは不可能だ。治癒魔法が使えるイヴァンジェリンたちとはぐれた今、リタを治療する術は存在しない。グレンも荷物の中から傷薬や胃薬程度しか見つけられなかったのだろう。顔色をどんどん青白くしていく。


 その間も魔獣の轟きは絶え間なかった。


 リタはグレン越しに、音のする方を見る。遠くで二体の竜が争っているのを見えた。一体は先ほどの黒竜。もう一体は真逆に真っ白な毛並みの個体だ。


 黒竜が爬虫類のような肌なのに対し、白毛の竜は柔らかな印象を与える。こちらは神の使いと云われても信じてしまうような神々しさを感じた。何故か、その二体が威嚇をしながら、戦っている。


「何が、起きたの……?」


 おそらく、リタ達が地面に投げ出されたのは黒竜が白竜の襲撃を受けたためと予想出来る。しかし、何故、白竜が黒竜を襲ったのかが分からない。


 グレンも同じようで「分からない」と何度も首を横に振る。そして、助けを求めるように言った。


「ねえ、リタ。どうすればいい?」


 ――その答えはリタも知らない。


 一体、リタ達はどれほどの距離を移動したのだろう。ただ、周囲の景色は先ほどまでいた荒野とは一変した森の中だ。しかし、今朝までいた場所とも少し違う。岩や切り立った崖も多く、地図外アネクメネのより奥地に運ばれてきたように思える。どうやったら、イヴァンジェリンたちと合流出来るのか。合流には何日かかるのかも分からない。


 今、二人は完全に孤立した状態だ。運の良いことに二人が持っている荷物には食糧や野営に必要な道具もある。魔獣に襲われる危険性さえ考えなければ、野宿することも難しくない。


 リタは唇を噛む。覚悟を決めた。


「グレン。よく聞いて」


 痛みを我慢しながら、リタは口を開いた。


「どこか安全な場所を探すのよ。岩の下とか、小さな洞穴とか――見つけるのは大変だと思うけど、敵が襲ってこれなさそうな場所を探して、助けが来るまでそこで待つの。きっと、王女殿下たちが見つけに来てくれるはずよ」


 グレンがむやみに動いても、イヴァンジェリンたちと合流できる可能性は低い。それなら、未来視の出来る王女に見つけに来てもらった方が確実だろう。迷子になった時は動かないのが一番いい。


「食糧もあるし、水場さえ確保すれば数週間は生き延びれるわ。でも、あまり食べ過ぎちゃ駄目よ。どれくらいで助けが来るか分からないから、食糧は大事に食べるのよ」


 救援が来るまで出来るだけ生存の可能性をあげる。今、グレンに出来るのはそれだけだ。ひたすら助けを求めるというのは、精神的には辛いことだろう。だが、それを乗り越えなければ、生き延びることは出来ない。――そして、今のリタに出来ることも、グレンの生存率をあげることだけだ。


 リタは一呼吸置く。


「一人でも大丈夫ね?」


 その言葉で、グレンもリタの考えを理解したようだ。


 それまで真剣に相槌を打っていたのに、突然身動きを止めた。瞬きを忘れたようにこちらを見ている。リタはどうするのか、と訊ねられる前に答えを口にする。


「私はもう動けない。王女殿下もラルフもいない。私の怪我をここで治療することは出来ないわ。怪我をしたままの私を連れていっても足手まといよ。グレンの生存率を下げることになってしまうわ。だから、私はここに残る。ここから先は貴方が一人で行くのよ」


 「そんな」とグレンは消え入りそうな声で呟いた。リタは苦笑いを浮かべる。


(王女殿下の未来視は外れてしまったわね)


 リタが生き残る未来はない。王女たちと一緒に“地図外アネクメネの魔女”を倒す未来はもう現実にすることは出来ない。ならせめて、グレンだけでも生き残ってほしいと思う。


「嫌だ、嫌だよ」


 グレンは泣きそう――ではない。もう、泣いていた。


 緑の瞳から幾つも雫が落ちる。リタの知るグレンは大人の男性だった。優しくて落ち着いていて、決して感情的になることはなかった。そんな彼が泣いているのが、どこかおかしかった。


「リタを置いてはいけない」

「駄目よ。置いていきなさい」

「嫌だ。歩けないなら俺が負ぶっていく」


 子供に諭すようにリタは言葉を繰り返す。


「私を連れていって意味はないのよ。死ぬのが少し先か、もっと先かに変わるだけよ。ここで置いていくのが貴方のためなの」


 その言葉にグレンは黙り込んだ。ようやく納得してくれたかと思ったが――違った。涙を拭った緑の瞳に浮かぶのは怒りの色だ。


「何でリタまでそんなことを言うんだよ」


 泣きながらも、グレンは怒っていた。


「『俺のため』『俺のため』って、……全然俺のためじゃないのに、何でそんなこと言うんだよ!」


 それは誰に対する怒りだろう。


 目の前のリタと、――きっと、今まで『グレンのため』と口にした多くの人に対してだ。


「跡継ぎに相応しくなるようにとか、お祖父様じいさまのようになれって、まるで俺のためのように言うけど全部アンタらの都合じゃないか! 俺は一度だって、お祖父様じいさまになりたいなんて思ったことはない!!」


 それはきっと、ずっと彼が隠していた本音なのだろう。


 『お祖父様じいさま』という単語は以前も聞いた覚えがある。グレンはアークライト家の跡継ぎとして祖父のようになれと教育されてきたのだろう。その強要の結果、グレンは酷く自己肯定感の低い子供に育ってしまった。


「どうしてリタを置いてくことが俺のためになるんだよ! 俺は置いていきたくないのに」

「……私を連れていったら、グレンも巻き添えで死んでしまうかもしれないわ」

「何で、それが俺のためじゃないんだよ」

「だって、死んでしまうかもしれないんだよ? グレンだって死にたくないでしょう?」


 続く言葉を口にするか、飲み込むか悩んだ。リタは笑みを作る。


「……私は二回目だから大丈夫よ」


 きっと、その笑顔はきっとひどく醜かっただろう。でも、これは本当のことだ。リタが死を迎えるのは今回が初めてではない。――前世での死を、リタは覚えている。


 大学四年生のときだった。


 無事就職活動も終え、第一希望ではなかったが、希望する業種の会社の内定も得た。友達の多くも内定を得ていて、卒業旅行をどこへ行こうかなんて楽しく盛り上がっていた。その日は大学の授業も必修だけで、昼過ぎには学校を後にした。友達との約束もバイトもなかったから、ターミナル駅で買い物をして帰ろうと思っていた。


 駅前近くの大通り。横断歩道を渡って、向かいの駅ビルへ向かっている途中だった。信号は青。自分以外にも何人も歩行者がいた。――そこに信号無視をした車が飛び込んできたのだ。


 最後に覚えているのは知らない人たちが「大丈夫ですか!」と必死にこちらに呼びかけていたこと。それから記憶はブツリと消えた。


 それ以降の記憶をリタは覚えていない。だから、前世の自分はあの事故で死んだのだと思う。意識がある間は体が痛かったが、それ以降は痛みの記憶はない。きっと、死というのは眠りにつくのと一緒だ。自分が眠りにつく瞬間を認識できないのと同じように、何も気づけないまま永遠の眠りにつく。リタは一度その経験をしているのだ。


 だから怖くない――とは言わない。でも、一度経験してるか、してないかは大きいと思う。もう一度同じことが起きるだけだ。生まれた命はいつか必ず終わりを迎える。その日がやって来ただけのことだ。


 人の魂が輪廻するというのであれば、リタは死んでも再び生まれ変わる。それがこの世界か、前世の世界か、あるいは全く別の世界かは知らない。今のリタのように次のリタは昔のことを覚えているかは分からない。でも、自分自身がここで終わるわけではなく、また別の人間として続いていくのなら、ここで死んでもいいと思ったのだ。


 でも、それを受け入れてくれない人がいた。


「分かんないよ。リタが言ってることは分かんない」


 グレンは近くに落ちているリタの背嚢を拾い上げる。二つの背嚢から荷物を全部取り出す。そして、今度は中身を選別しながら小さい方の背嚢に詰め込んでいく。


「ルーカスに言われたんだ。何のために強くなりたいのか、答えられないうちは絶対に強くなれないって。曲げられない信念を一つ持っておけって」


 固く袋の口を締めると、グレンは荷物を左肩にかけた。そしてリタの近くに戻って来る。それからリタを背負いあげる。身体を動かされた痛みでリタは悲鳴をあげる。しかし、それを無視してグレンは立ち上がた。


「俺は家のためでも、国のためでもない――俺の大切な人のために戦う」 


 芯の通った声だ。正面を見据えるグレンの瞳から弱気は消えていた。


「そのために何だってやってやるから!」


 そう言って、グレンは二体の竜に背を向け、安全地帯を求めて歩き出した。

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