第四章 黒竜の襲来③

 

 突然、巨体が空から降って来た。闇のように黒いソレの両前足がサソリの鋏を掴む。本体同様、厚い殻で覆われているはずの鋏がまるで薄い氷のように割れた。


 魔獣サソリを劈くような声を上げる。ソレが今度はサソリの頭に食らいつき、鋏と同じように殻を簡単に突き破って、その下の肉を嚙み切る。圧倒的な強者の前では、大型魔獣でさえ弱者なのだ。


 それを形容するならドラゴン――竜、という言葉が一番正しいだろう。


 額には巨大な角。短い前足にしっかりと筋肉のついた後ろ足。四足には鋭い鉤爪が三本ずつ生えている。空を飛行するための大きな翼。長い尾まで含めれば、体躯は二十メートル近い。全身が黒く、禍々しささえ感じさせる。


 今までリタが見てきた魔獣達はどれも前世か、或いは今世で見た動物たちによく似ていた。しかし、この魔獣は違う。前の世界では空想としてしか存在しない幻獣の姿を模して、今、姿を現したのだ。


 ――無理だ。


 無理だ無理だ無理だ。これは無理だ。リタは悟った。自分たちはここで死ぬ。


 先ほどのサソリに似た魔獣にさえ、敵うかどうか分からなかった。しかし、今目の前にいるのは人間がどう足掻こうか絶対に敵うことのない王者だ。敵うわけがない。勝てるわけがない。生きて帰れるわけがない。


 誰もが、黒竜がサソリを喰らう姿を呆然と見つめるしかなかった。ルーカスでさえ、イヴァンジェリンでさえ、動くことが出来なかった。


 いや、もし動けたとしても何が出来たというのだろう。この広い遮蔽物のない丘陵で、空からの攻撃から逃れる手段はない。逃げたところで寿命を数分伸ばすだけの足掻きにしかならないのだ。


 先ほどまでサソリの体を為していた魔獣は既に肉片へと化していた。


 それまでサソリしか見ていなかった黒竜がノソリと動き、赤い瞳をこちらに向けた。この場を支配していたのは恐怖だ。黒竜は咆哮をあげる。今度はこちらに近づいて来る。


「『燃えよ』!」


 誰もが凍りつく中で、最初に動いたのはラルフだった。


 その顔を限りなく蒼白で、声も震えていたが、彼は詠唱を口にする。


 巨大な炎の玉が無数に黒竜に降りかかる。しかし、黒竜の歩みは止まらなかった。次に声を張り上げたのはエリスだった。


「みんな! 援護はよろしくね!」

 

 彼女は果敢にも黒竜に挑みかかった。


 イヴァンジェリンが援護魔法の詠唱を始める。魔法で身体能力を格段に向上させたエリスが真っすぐに槍を黒竜の瞳を目掛けて突き刺す。


 しかし、その穂先が相手に届くことはなかった。


 黒竜が首を大きく振り、額の角でエリスの体を吹き飛ばす。受け身を取ることも出来ず、その体が地面に叩きつけられる。イヴァンジェリンが駆け寄り、早口で治癒魔法を掛け始める。


「クソッ!!」


 その間、竜の気を引く必要があった。ルーカスは無謀を承知で黒竜に向かっていく。どうにか足元から崩せないかという企みだ。後ろ脚に剣を振り下ろすが、まるで刃が立たない。


 ラルフは風、水、土、と様々な属性の攻撃魔法を放っているが、黒竜は気にする素振りもなかった。


 再び、黒竜は咆哮する。真っすぐこちらを睨み、近づいて来る。足元のルーカスにも目をくれずだ。


 ――そこで気づいた。黒竜が見ているのはラルフではない。リタでもない。


 黒竜は、後ろにいるグレンを睨みつけているのだ。


 何故と疑問を浮かべる暇もなかった。動きが緩慢だった黒竜が突然走り出す。首を前に突き出し、大きく口を開く。


 条件的な反射だった。リタはグレンを庇おうと両手を広げたが――リタごと、黒竜はグレンを飲んだ。

 


 ❈


 

 何が何だか分からない。


 周囲は真っ暗だ。全身が粘々した液体にまみれている。肌に触れる生暖かい柔らかい物体はおそらく竜の舌だ。気持ち悪いが、そんなことを言っている余裕はない。


「グレン! グレン、聞こえる!?」


 目には見えないが、すぐ隣にグレンがいる。一緒に竜に食われたのだ。必死に名を呼ぶと「リタ」と悲痛な声が返って来た。


「リタ、リタ……っ! 俺たちどうなるの……!?」


 その答えはリタにも分からない。外の様子は全く見えない。


 しかし、先ほど飛行機が離陸するときのような浮遊感を味わった。おそらく、黒竜は移動している。それは確かだ。


 リタは手探りでグレンに触れる。安心させるように声をかける。


「大丈夫。なんとかなるわ。だって、王女殿下はこんな未来を視てないんだもの」


 彼女の視た未来は六人が揃って、“地図外アネクメネの魔女”を倒す姿だ。二人が死ぬ未来は視ていない。だから、大丈夫。――そう言いながらも、リタは自身の発言を信じられなかった。


 イヴァンジェリンは今まで大きな異変については予知が出来ていた。


 「この先は危険だから大回りしましょう」とか、「今日は沢山の魔獣に襲われるわ」と言った内容だ。しかし、今朝の襲撃を王女は予知出来なかった。サソリや竜に遭遇することもだ。


『わたくしは視ました。この六人で魔女の棲み処に到達し、この国の呪いを解く瞬間を。ただ、わたくしの未来視も絶対でありません。未来とは流動的なものであり、少しの綻びで簡単に結果を変えてしまうからです』


 出立前。国境近くの街でイヴァンジェリンはそう言った。


 つまり、未来とは不変的なものではなく、何かの拍子で変わってしまうということだ。今朝の一件を王女が予知出来なかったというのは、未来が元々のものと変わってきているからではないのか。


 でも、そんなことをグレンには言えない。リタに出来るのはただ、彼を励ますことだけだ。


「大丈夫。私を信じて」


 彼が不安にならないよう、力強く言葉を発する。この言葉に根拠は何一つない。でも、今リタに出来るのはそれだけだった。



 どれだけ時間が経ったのだろう。黒竜に食われてからは外の様子が全く分からず、時間の感覚も正確ではない。


 あれから長いこと時間が経っているのに、リタ達は変わらず黒竜の口内にいた。まだ、飲み込まれてもいないし、鋭い牙で咀嚼されることもない。少しずつ冷静になってきた、リタはそのことに違和感を覚え始めた。


(食糧として食べられたわけではないの……?)


 考えてみれば、黒竜は先ほどの魔獣サソリも倒しただけだ。喰おうとする様子もなかった。唯一食べたのはリタとグレンだけだが、それも相手を選んでのことだ。


 黒竜はグレンを狙っていた。それが意味するのは黒竜に知能があり、何かしらの意図があって行動したということだ。


(グレンをどこかへ連れていくのが目的?)


 しかし、推測が出来るのはそこまでだ。一体何のために黒竜がそんな行動をしているのかは全く分からない。今のリタに出来るのは状況が変わるのを待ち、なんとか逃げるチャンスがないか待つだけだ。


 そして、その時は突然訪れた。

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