第四章 黒竜の襲来②
その日は今までと全てが違っていた。
❈
早朝。日も昇る前に、突然リタ達は魔獣に襲撃を受けた。見張りをしていたエリスが気づいてすぐに声をあげたが、何人かは反応が遅れた。
襲ってきたのは赤い毛並みのハイエナに似た中型――いや、小型の魔獣だ。全部で三体。周囲に結界を張っていたが、魔法耐性があるらしい魔獣の一体は結界を破壊した。そのまま、他の二体もなだれ込む。ルーカスがラルフに噛みつこうとした一体を大剣でなぎ倒した。
「援護を!」
「は、はい」
慌てて眼鏡をかけたラルフが無詠唱で風魔法を放つ。
しかし、機敏な魔獣相手では魔法での対処はしにくい。彼が放った魔法は魔獣に掠るだけだった。もう一体をエリスが槍で突く。しかし、その間にもう一体がグレンに飛びかかった。
「グレン!」
リタは叫び、手近にあった鍋を防具代わりに間に割って入った。リタも魔獣の牙で噛まれることはなかったが、魔獣の爪がリタの腕の肉を裂く。リタが悲鳴をあげると同時に、ルーカスの大剣が魔獣の首を落とした。地面に魔獣に噛まれたことで変形した鍋が落ち、魔獣とリタの血が散らばった。
「大丈夫か」
ルーカスは乱暴ともいえる手つきでリタの腕を掴んだ。
リタは痛みで声をあげる。グレンは顔を真っ青にし、リタの名前を呟くだけで何も出来ない。血がぼたぼたと落ちる。舌打ちをしたルーカスがイヴァンジェリンを振り返る。
その時の王女は地面に座ったまま、完全に呆然としていた。今何が起きているのか、まるで理解出来ない。まるでそんな風に、動くことが出来ていなかった。
「おい、王女!」
「え、ええ。分かってるわ」
名前を呼ばれたことで彼女はようやく動き出す。治癒魔法をかけてくれた。
「『癒しよ』」
傷が癒えるのと同時に、痛みも消えていく。リタは「ありがとうございます」と礼を言ったが、王女は何も答えなかった。妙に視線が彷徨う。そのことを疑問に思う間もない。
「見てください!」
緊迫した声をあげたのはラルフだ。彼が指差した方向に全員が視線を向ける。
真っ暗な闇の中。木々の向こうに光るものを見つけた。それは一つや二つではない。十、二十――いや、もっとだ。数えきれないほどの光が浮かんでいる。それは先ほど襲い掛かって来たのと同じ魔獣たちの目だ。
小型の魔獣はラルフの感知魔法でも捉えられない。小型ではあるが、奴らは凶暴だ。何十体という数は、とてもではないがこの人数で対処しきれない。
「逃げるぞ!」
ルーカスの声と共に全員が走り出す。グレンが慌てて荷物を掴み、リタは王女の手を引いて、一目散に駆けだした。
ハイエナに似た魔獣たちはしつこかった。どれだけ走っても追いかけてくる。
ラルフが風の魔法で近づいて来る群れを木々ごとなぎ倒す。単体で襲い掛かって来た奴らはルーカスとエリスが対処する。しかし、逃げながらの防戦だ。仕留めるまでにはいかない。
イヴァンジェリンは走りながらも必死に援護魔法の詠唱を続けていた。リタも威嚇のために、矢を放つ。効果があるかは分からないが、やらないよりはマシだと思った。そんなことをしている間にニ十本以上あった矢が全てなくなった。
状況が変わったのは日が完全に昇った頃だ。リタ達は
(まずい)
そのことに気づいたのはきっと、リタだけではないだろう。
今まで何十頭の魔獣の追撃を凌げたのは障害物の多い森林の中だったからだ。しかし、これだけ遮蔽物がない場所で四方八方から襲われたら、盾に出来るものがないのだ。唯一可能性があるとすれば、ラルフの魔法だ。先ほどのような大規模な魔法で魔獣を一掃出来れば勝機はある。そのためだろう、ラルフが長い詠唱を唱えだした。
しかし、魔獣たちは何故か、丘陵地帯まで追ってはこなかった。
彼らはその手前で一斉に足を止め、唸りながらこちらを睨んでいた。まるで獲物が惜しい所で逃げ切ってしまったような悔しさを滲ませながらだ。そのことで助かった、とは――到底思えなかった。
リタは昔、父に教わったことを思い出す。
動物たちには縄張りがあって、彼らは強者の縄張りを荒らすことはしない。魔獣の群れが
「気をつけろ! 何かいるぞ!!」
ルーカスが足を止める。エリスと後方を、ルーカスが前方を警戒する。しかし、敵が現れたのは前からでも後ろからでもなかった。
突然足元が隆起した。
地震か、と思った瞬間に全員の身体が空に投げ出されていた。落下しながらも、リタの目に映ったのは――
茶色の殻に全身が覆われ、何本も足が生えている。だが、何よりも目を引くのはその巨体だ。七、八メートルは優にあるその体躯は明らかに大型と呼ばれる魔獣のサイズだった。
「『浮け』!」
ラルフの詠唱が響く。
十メートル以上宙に投げ出されたリタ達だったが、ラルフの魔法で地面に叩きつけられることは免れた。
地面に着地したリタは改めて魔獣に視線を向ける。サソリの体後ろ半分は土に埋もれている。どうやら、地中から現れたあの魔獣によって空に放り出されたらしい。
受け身を取ったルーカスとエリスが魔獣と相対する。ルーカスの顔には汗がにじみ、エリスの表情からは笑みが消えていた。
「マジかよ」
呟いたのはルーカスだ。
今まで何体も魔獣と戦ってきたが、どれもが中型魔獣――精々、二メートルほどの大きさだった。しかし、目の前にいるのはそれより遥かに大きな魔獣だ。その上、体を覆う殻は見るからに頑丈そうだ。ルーカスの大剣も、エリスの槍も通用するかも分からない。
それでも、こちらには逃走という選択肢はない。逃げるために来た道を戻ることは不可能だ。今も森の中には
どうするのが一番いいか。作戦を練る時間もない。
ラルフとイヴァンジェリンが詠唱を始める。勝機が薄くとも戦わねばならない。負けとはすなわち、全員の死なのだから。
この旅で最も危険な魔獣との戦闘だ。緊張感が周囲に広がっている。誰もがサソリを見つめている。――地面に大きな影が落ちたのはそのときだった。
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