第四章 黒竜の襲来①


 それは十三日目の出来事だった。



 ❈



 イヴァンジェリンの見立てでは“地図外アネクメネの魔女”の棲み処までは片道三週間程。あと一週間――七日程頑張れば、目的地に到着する。


 戦闘はどんどん苦戦を強いられていくようになってきた。複数体の魔獣が襲ってくるのは当たり前。中には猛毒を持っていたり、魔法に似た能力を持つ奴等まで現れるようになった。ルーカスとエリスの表情から余裕は消え、イヴァンジェリンとラルフは常に詠唱を続けないといけない。そうしないと、攻撃も防御も間に合わないのだ。


 戦いの最中、リタとグレンは何も出来ない。王女たちの近くで息を潜め、隠れていることしか出来ない。弓矢は持っているけれど、襲撃してくる魔獣は普通の矢で倒せるような弱さではない。いたずらに相手を刺激させるわけにもいかない。リタは大人しくグレンを庇いながら隠れることしか出来ないでいた。



「ちょっといいか」


 ルーカスがイヴァンジェリンに声をかけたのはその日の夕方のことだ。いつも通り王女の指示通り野営地を決め、その準備をしている最中のことだ。「二人きりで話がしたい」と彼は顎で離れた場所を指し示す。王女の額には汗が浮かんでいる。まだ、日中の疲労が取れ切っていないのだ。


 王女は何か探るようにルーカスを見上げる。


「――いいわよ」


 彼女は立ち上がった。「何かあったら呼ぶ」とだけ言い残すと、二人は木々の向こうに消えていった。


 旅の指示役リーダーはイヴァンジェリンだが、戦闘時の統率役リーダーはルーカスだ。一行パーティーの中心人物同士、話し合いたいことがあるのだろう。二人が野営地から離れたことと、ルーカスが何を話そうとしているのかは気にはなる。しかし、わざわざ危険を侵してでも二人きりになって話そうとしているのだ。他のメンバーには聞かれたくない話なのだろう。


 リタは同じようにルーカスたちを気にする素振りのグレンに声をかける。


「グレン。エリスの手伝いしてあげて」

「分かった」


 彼はチラチラと二人が消えた方向へ視線を送りながらも、リタの指示に従い、エリスの手伝いに向かう。リタ自身も夕食の準備に集中することで、二人のことは気にしないように努めた。



 ❈



「本当に、このまま進んで大丈夫なのか」


 開口一番、ルーカスは本題を切り出した。


 真っすぐにこちらを見上げてくるのはルーカスにとっては雇い主である少女だ。この国の第一王女兼聖女という、本来であればルーカスのような下賤な民が対等な口を利くことも許されない高貴な人物だ。十歳も年下の癖に口も知恵も回る王女は、同時に癪に障る存在でもある。ただ、それでも彼女はルーカスの主だ。その上、進路を決める立場でもある。指示を仰ぐべき存在だ。


 彼「出来る限り危険の少ないルートを選ぶ」と宣言した通り、彼女の指し示す道は本来の地図外アネクメネの危険度を考えればかなり安全なものだ。それでも奥地へ進めば進むほど、魔獣の危険度は増している。このままでも本当に大丈夫なのかという不安はどんどん強くなっていく。


「ええ、もちろん。何も問題はないわ」


 イヴァンジェリンの答えは淀みがない。


 一体どこからその自信が出てくるのか――とも思ったが、彼女には未来が視えるのだ。依頼主の考え全てを理解するのは凡人には無理なのだろう。ルーカスが危惧することなんて、彼女からすれば杞憂なのかもしれない。だが、自身の考えは伝えておく必要があると思った。だから、わざわざ危険を承知の上で、二人きりの状況を作ったのだ。


 ルーカスはハッキリと断言した。


「俺はそうは思わない」


 王女はその発言に気分を害した様子はなかった。「あら」とどこか面白そうに口元に笑みを浮かべる。


「どうしてかしら」

「アンタだって分かってんだろ。このままどんどん凶暴な魔獣が現れるようになったらアイツらを庇うのは難しくなってくる」


 日に日に――地図外アネクメネの奥地へ行けば行くほど、どんどん魔獣は強くなる。魔導士二人の援護があるのと、一度グレンが凶暴な魔獣を倒しているということもあって、想定よりは行程は順調だ。しかし、限界が近いことを感じているのも事実だ。今までは複数の魔獣が襲ってきても上手く対処出来ていた。


 しかし、今日はじめてルーカスが仕留め損ねた小型の魔獣がリタたちに襲い掛かろうとしたのだ。エリスの援護で何ごともなかったが、こんなことをずっと続けられるとも思わない。


「本当にこのままアイツらを連れていって平気なのか」


 本来、誰よりも強い戦闘能力を有するはずのグレンは、記憶を失った結果、その力を満足に振るえなくなっている。身体が覚えていればとも思うが、地図外アネクメネに入る前に確認して分かった。そもそも、今のグレンには戦うには覇気がなさすぎるのだ。何かのために剣を振るう覚悟がまだ出来ていない。剣筋も、ルーカス程度が指導出来るほど未熟だ。いくら肉体的には英雄と呼ばれるままのものであっても、あれでは戦えない。戦わせられないのだ。


 リタに至っては完全に非戦闘員だ。元々田舎育ちで父親が猟師だったというだけあって、温室育ちの令嬢に比べれば体力だって胆力だってある。戦えない分、他の部分で役に立とうと頑張ってはくれている。


 だが、冷たい言い方をすれば、それだけだ。彼女がこの旅に本当に必要なのか、未だにルーカスは疑っている。


 そう。ルーカスは疑っているのだ。一緒に旅をする仲間を、というよりは目の前の依頼主をだ。


 確かに彼女は高貴の身の上だ。国の呪いを解くために、父に逆らって地図外アネクメネに足を運ぶ気概もある。認めたくはないが、ルーカスたちを仲間に引き入れるのに成功したのも彼女の賢さがあってこそだ。


 だが、反面、信用しきれないのだ。


 彼女の腹の内はルーカスには読み切れない。国を救いたいという責任感があるのは間違いないが、全て本当のことを喋っているかが信じられない。


 頭の良い人間は人を騙したり、嘘を吐けることをルーカスは知っている。王女は何か決定的なことを隠しているのではないだろうか。二人のことを考えれば、引き返すべきなのではないか。そう思ってしまう。


 じっと、ルーカスはイヴァンジェリンを見つめる。睨みつけている、という表現の方が正しいかもしれない。十歳以上年上の、背丈も横幅も自分よりずっと大きい男に見下ろされているというのに、王女は怯む素振りは一切ない。灰色の瞳がこちらを見つめてくる。


 黙り込んでいたイヴァンジェリンがふと視線を外した。遠くを見つめて、ポツリと呟く。


「明日で十四日目ね」


 それは地図外アネクメネに入ってからの日数のことだろう。怪訝に思いながらも、「ああ」とルーカスは頷く。その灰色の瞳には何が映っているのだろうか。


 王女はニコリと微笑んだ。


「このまま進んでいって問題ないわ。二人のことも、お前が心配するようなことは起きないわ。お前は自分のことと……そうね。エリスのことでも一番心配しておきなさい」


 イヴァンジェリンの態度にはどこか不信感を抱いた。しかし、ルーカスがそのことを問いただす前に彼女が口を開く。


「話はそれだけ?」

「あ、ああ」

「じゃあ、戻りましょう。そろそろ戻らないと危険だわ」


 無理やり話を切り上げ、イヴァンジェリンは野営地へと先に戻っていく。ルーカスは釈然としない気持ちを抱えたまま、雇い主の後を追う。


 ――この時、王女が口にした「十四日目」の意味を問い出さなかったことを、ルーカスは翌日後悔することになるのだった。

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