第三章 地図外(アネクメネ)⑤


 地図外アネクメネで野営をするのは危険な行為の一つである。夜行性の魔獣だって存在するのだ。結界を張っているとはいえ、眠っている間に襲撃される危険性もある。そのため、誰かが起きてなくてはいけない。魔獣が接近していることに気づけ、かつ対応が出来る人間――となると、仲間の中でも限られる。ルーカスとエリス、そしてラルフが毎晩順番に起きて見張りをしていた。


 今夜の最初の見張りはエリス。次がラルフだ。毛布にくるまって眠っていたリタは、エリスがラルフを起こす物音で目を覚ました。リタが目を擦りながら起き上がると、既にエリスは眠りについていた。


「ラルフ、見張りお疲れ様」


 まだ夜も夜更けだ。リタは大きな欠伸をする。それから、荷物から薬缶ケトルを取り出し、水筒から水を注ぐ。カップの絵が描かれた紙袋から茶葉を薬缶に入れ、そのまま火にかける。


「今、お茶淹れるね」


 リタは見張りをすることが出来ない。だからせめてもと思い、こうして見張りが入れ替わるタイミングでお茶を淹れるようにしている。茶葉は国境近くの街でルーカスたちが買ってきたもので、この辺りでは好んで飲まれているらしい。リタも試しに飲んでみたが、麦茶に似ていた。無性に小学生の夏休みを思い出す味だ。


 薬缶からカップにお茶を注ぐ。「熱いからね」と言いながらラルフに渡すと、彼は「ありがとうございます」と少し恥ずかしそうに微笑んだ。


 いつもであれば、リタはまた毛布にくるまって眠りにつく。しかし、ふと、リタは今まで全然ラルフと話をしたことがないことを思い出した。勿論、事務的な会話はする。しかし、個人的な話は全然したことがない。そのことに気づいたのだ。


「ねえ、ラルフは何でこの旅についてくることにしたの?」


 いつものように眠ろうとせず、話しかけてきたリタにラルフは少し驚いたようだった。俯き、おどおどとした様子で返事をする。


「な、何でって……何がですか?」

「だって、他の人たちが旅についてきた理由は知ってるけど、私、貴方がどういう理由で地図外アネクメネに来たのか、聞いてないんだもの」


 彼はリタやルーカスたちと違って、王宮勤めの身だ。王女は謂わば主。ラルフがついてきた理由は主人の命令でしかないのかもしれない。それでも、リタは聞いておきたかったのだ。


「理由、ですか」


 そう呟くと、ラルフは黙り込んでしまった。俯き、「えっとえっと」と手をモジモジさせている。答えを考えているのだろうか。リタは彼が何かを言うまで待つことにした。ラルフが「そう、ですね」と答える。


「僕がここまで来たのはイヴァンジェリン様に御命令されたから、なんですけど」


 彼はそう言って、空を見上げる。地図外アネクメネの奥へ進めば進むほど、夜空は綺麗な気がした。


地図外アネクメネに来てみたかったから、というのもあります」

地図外アネクメネに?」


 こんな危険地帯に何故来たいと思うのか、リタにはよく分からない。リタの困惑に気づいた、ラルフが「あの、その」と恥ずかしそうに答える。


「王宮には本が沢山あって、その中には地図外アネクメネについて書かれたものもあるんです。でも、そこにある本だけでは地図外アネクメネの全貌は分からなくて、どの本も『地図外アネクメネは未知である』って文章で締めくくられてるんです」


 それは当然だろう。地図外アネクメネに基本的に立ち入る人間はいない。ラルフは地図外アネクメネの魔獣や植物にも詳しいが、彼の知識の殆どが地図外アネクメネの近隣でも見つけられるものについてだ。あとは生態系や類似の種類から推測をしてくれているだけだ。実際に地図外アネクメネに入って調査をした人間は殆どいない。いたとしても、一日で行って帰って来れる距離しか足を踏み込んではいないだろう。


「だから、実際に地図外アネクメネを目にしたいと思ったんです。どんな場所なのか、実際に見て――いずれ、僕も同じように地図外アネクメネについて本を書けたらいいなと思ったんです」

「本!」


 思わず、リタは大声をあげてしまった。他の仲間達が寝ていることを思い出し、慌てて周囲を見る。ルーカスが身動ぎしたぐらいで、誰かが起き出してくる様子はなかった。


「すごいね。そんなこと考えてたんだ」


 リタは声を潜める。


 本を書こう、という人間は純粋にすごいと思う。前世でも今世でも、リタは本を読むのがそれほど得意ではない。書くのだってそうだ。小学校の頃の読書感想文は非常に四苦八苦した。大学でもレポート提出が必要な講義は出来るだけ取らないようにしていたのだ。


「夢みたいな話なんですけど、今回の旅に同行すれば叶えられると思ったんです」

「全然夢じゃないよ。絶対出来るって」


 今回の旅で“地図外アネクメネの魔女”の討伐に成功すれば、きっと民衆は王女がどういう旅をしたのか興味を持つだろう。地図外アネクメネがどういった場所なのかをラルフが本にすれば、ベストセラーは間違いないだろう。リタはニコニコと笑う。


「書けたら私にも読ませてね」


 本を読むのは苦手だが、知り合いが書いた本には興味がある。社交辞令でも何でもなく思ったことを伝えると、ラルフは恥ずかしそうに「はい」と頷いてくれた。



 ❈



 進めば進むほど、襲ってくる魔獣は増える。徐々にルーカスたちから余裕が消えていく。イヴァンジェリンが治癒魔法を使う回数は増え、戦いが終わった後も気を抜けなくなってくる。


「そろそろ出発しましょう」


 今日で九日目。


 二体同時に中型魔獣が襲ってきた。一体をルーカスが、もう一体はラルフが止めを刺す。魔法を連発すれば体力のないイヴァンジェリンはより一層疲労する。少しだけ休憩をして、再び一行は歩き出した。


 ルーカスは王女に指示された通りの方角へ警戒しながら進んでいく。エリスも背後への警戒を怠らない。


「――あれ?」


 背後でエリスの声が響いた。その声が聞こえていたのはリタまでだったのだろう。リタとグレンが足を止める。前方のラルフたちは気づいていない。


 エリスは一本の木を見上げていた。何度も不思議そうに瞬きをする。


「どうかしたの、エリス?」


 リタたちが足を止めている間に、他の三人はどんどん進んでいく。距離が開く前に追わないといけない。エリスは何か言いたげだったが、結局何も言わなかった。


「えへへ、何でもない!」


 明るく彼女は答えた。それから、「急がないとルーカスに怒られちゃうよ!」と自分が原因だったことを棚に上げて、リタたちに急ぐように言う。リタとグレンは空いた距離を詰めるために、歩く速度を速める。


 エリスもその後を追う。警戒のため、背後へ視線を向けるのも忘れない。しかし、彼女の視線が向くのは先ほどの木だ。


 その大木は変哲もないものだった。幹のくねった少し変わった伸び方をしているが、道中何度も見ている。地図外アネクメネでは平凡な植物だ。――そう。木、自体は。


 珍しく、エリスの目が厳しくなる。険しい表情で暫くエリスは木を見つめていたが、諦めたように視線を外した。

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