第三章 地図外(アネクメネ)④
立ち上がり、歩き始めてからようやくリタは自分が大分酔っていることを自覚した。視界がくらくらする。足どりもおぼつかない。
「大丈夫? 一人で歩ける?」
「へーきへーき」
リタは心配そうに声をかけてくるグレンにヘラヘラと笑みを返す。それからフラフラとしながらも歩き出す。
街灯があるとはいえ、夜の街は暗い。昼間はあんなに明るく、騒がしい通りの人通りも少ない。日中の王都とはまるで別の世界だ。リタは夜の街も好きだ。まるで世界が自分のものになったかのような感覚になれる。
空を見上げれば満天の星が輝く。都会だというのに、王都では星が綺麗だ。東京とは大違いである。こんなに綺麗な夜空、前世ではテレビぐらいでしか見たことがなかった。
鼻歌を歌いながら、リタはくるくると踊るように歩く。そのメロディーは夕方のチャイムの定番の曲のものだ。小学校の頃、
「それは何の曲?」
リタの少し後ろを歩くグレンが訊ねてくる。別の世界の歌なんて当然グレンは知るわけもなかったが、酔っていたその時のリタは当たり前を失念していた。
「遠き山に日は落ちて、よ。知らない?」
有名な曲なのに、と思いながらリタは答える。それから鼻歌ではなく、きちんと歌詞を口ずさみ始める。
思い返せば、このときのリタはとんでもないことをしていた。日本語とこの国の言語は全く異なる。突然、流暢によく分からない言語の歌を歌い始めるなんて、とんでもなくおかしな行為だ。意味の分からない歌詞の歌を歌い出したリタを、グレンは驚いたように見つめていた。
きちんと歌詞を覚えているのは一番だけだ。あっという間に一番を歌い終えたリタに、グレンは少し表情を強張らせてはいたが笑ってくれた。
「上手だね。リタさんの故郷の歌かい?」
「えーっとね、私の故郷の歌ではあるけど、リタさんの故郷の歌ではないわね」
この時のリタは本当に頭がおかしかった。だから、今まで誰にも話してこなかった前世の話をペラペラと喋ってしまったのだ。
グレンとはこの時、まだ精々よく話す常連客でしかなかった。今のような恋人関係どころか、友人とも呼べないような関係で――本当にこの時、リタがしでかしたことは下手をすれば、その後の人生全てを台無しにする行為だった。無自覚にリタは断崖絶壁を綱渡りするようなことをしていたのだ。
日本と呼ばれる国のこと。生まれる前の記憶を持っていること。リタはそれを当然のように彼に語ってしまった。以前に東部の故郷がいい場所だと語ったのと同じ感覚で――リタは洗いざらい昔のことをグレンに教えてしまった。
酔っていたリタは話している間のグレンの表情をよく覚えていない。ただ、「そうなんだ」「すごいね」と相槌を打ってくれていたのは覚えている。
酔っているせいでリタの足取りは遅く、いつもよりずっと時間をかけて家までたどり着いた。それでも昔の話をしていると時間はあっという間に感じる。そこは女将さんの知り合いが大家をしているアパートメントで、リタはその二階に住んでいる。リタは自身の失態を自覚することなく、自室に戻り、扉の前でグレンと別れた。そして、一晩ぐっすり眠り――とんでもないことをしでかしたことを自覚したのは翌朝だ。
「どうしようどうしようどうしよう」
リタは焦った。昨晩と違って、鏡に映る自分の顔は真っ青だ。グレンに全部話してしまった。彼はどう思っただろう。誰かに話してはいないだろうか。次に会った時にどうすればいいのか。頭を抱えてリタは考える。
「と、とにかく、アレは嘘だって――冗談だって言おう!」
リタは酔っていた。酔った人間の妄言だと主張することを決め、次に彼がお店に来るだろうとやきもきする。リタが冗談だと言う前にグレンが誰かに話すんじゃないかということだけが心配だった。リタの話を聞いたグレンの様子はどうだっただろう。どんな顔をしていたか。どんな反応だったか。全然思い出せない。
唯一思い出せたのは、リタが「ばいばい」と扉を閉める前に、「故郷の話をしてくれてありがとう」と穏やかな声が響いたことだけだった。
❈
リタ達は幾つか山を越えた。山頂から後ろを振り返っても、既に山以外見えない。人里から大分離れたことは間違いない。奥地に進むにつれてラルフの感知魔法に引っかかる中型の魔獣が増え、ルーカスやエリスだけでなく、ラルフとイヴァンジェリンも戦闘に加わることが増えてきた。
「『強化せよ』」
「『燃やせ』」
イヴァンジェリンとラルフの詠唱が響く。イヴァンジェリンは攻撃系の魔法は使えないようで、彼女が唱える呪文は全て治癒か援護系のものだ。そのため、ラルフが攻撃系の魔法を発動させ、ルーカスとエリスが相対する中型魔獣との戦闘に集中出来るように、小型の魔獣を燃やしていく。
強化魔法で攻撃力をあげたエリスの槍が蜥蜴に似た中型魔獣の喉を貫く。急所を攻撃された魔獣は暫く抵抗を見せたが、力尽きたようにその場に倒れた。「やったあ!」とエリスが歓喜の声をあげる。
「ねえねえ! ラルフ! これ、食べれる魔獣?」
「えっと、はい、食べられますよ」
「じゃあ、今夜のメインはこれで決まりだね! リタぁ、トカゲは捌いたことあるう?」
「トカゲはさすがにないかな……」
戦闘中は緊張感が走るが、それも一時的なものだ。前衛二人、後衛二人のバランスがとれたパーティは中型魔獣相手でも苦戦をすることはない。後衛の力は絶大なものらしく、最初に二人が戦闘に加わった時は「普段はもっと苦戦しているのにな」とルーカスが驚いていた。
「ホント、呑気だな。お前ら」
戦闘が終わったからと言って気を抜かないのはルーカスだけだ。彼は周囲を警戒するように見る。
「血の匂いで他の奴が寄って来るかもしれねえのに」
「平気よ」
ルーカスの言葉に反論したのはイヴァンジェリンだ。彼女は額の汗をぬぐいながら、近くの岩に腰かける。
「今日はもう、これ以上魔獣は襲ってはこないわ」
王女は時折未来視をしているのか、確信めいた口調で断言することがあった。ルーカスは苦虫をかみつぶしたような顔をする。
「へいへい。余計なことを言って申し訳ございませんでした」
「何故、謝るの? お前は必要な忠告をしてくれただけでしょう? 間違ったことは言ってないわ」
普段はルーカスを扱き下ろすイヴァンジェリンだが、ルーカスが真っ当なことを言っているときは彼の発言を咎めることをしない。今回のルーカスの発言は仲間への忠告だとイヴァンジェリンは受け止めたようだ。彼女が真っすぐに傭兵の男を見ると、彼は更に表情をゆがめた。
「ホント、この女気に食わねえ」
ボソリと呟くと、ルーカスは木の影から先ほどの戦闘を見守っていたグレンに近寄る。
「大丈夫だったか」
戦闘中、リタとグレンは四人の邪魔にならないよう隠れるのが定番になりつつある。すっかり兄貴分となっているルーカスの気遣いの言葉にグレンは嬉しそうに笑う。
「大丈夫だよ! ルーカスたちは本当にすごいなあ。あんなおっきな魔獣を倒せるなんて」
「まあ、あれぐらいお前でも――いや、いいか。この話は」
それからルーカスは魔獣との相対の仕方についてグレンに説明を始める。グレンはそれを目を輝かせながら聞いている。手元にペンと紙があったら、全部メモをしていただろうというのめり具合だ。ラルフがグレイリザードの食べられる場所をエリスに教え、エリスが指示通りに解体を進めるのを見守りながら、ちらちらとグレンたちの様子を窺ってしまっていた。
その晩の野営地は少し広まった、森の合間の広場のような場所だ。ルーカスとエリスが野営の準備を、リタは食事の準備を始める。グレンはリタの手伝いだ。
「なあ」
焚き火の準備を始めよう、という段階でルーカスがイヴァンジェリンに声をかけた。彼女は「何?」と顔をあげる。今日も一日中歩いてすっかり顔に疲労が溜まっている。
「前から思ってたんだが――アンタの選ぶ野営地に誰かが野営した跡が残ってるのはなんでだ」
ルーカスの言葉にリタはグレンと顔を見合わせた。リタは周囲を見回す。特にルーカスの言う野営した跡、というのは分からない。イヴァンジェリンは驚くこともなく、「今更ね」と呟く。
「当然でしょう。今、わたくしたちが進んでいるのは一ヶ月前にグレンが進んだ道だもの」
リタは息を呑む。
「本当はもっと強い魔獣がこの辺りにいたのよ。でも、グレンが全部倒していったの。だからわたくしたちが進んでいる道は通常より安全なのよ。また、新しい縄張りの主は育ちきってないの」
「バケモンだな」
ルーカスは苦々しい表情だ。グレンは自身のことを言われているとはいえ、全く実感がないのだろう。困ったように視線を彷徨わせる。
「そうじゃなきゃ、ここまで順調に進めはしないわ」
確かに王女の言うとおりなのかもしれない。
リタの知る
「……そっか。グレンがここを通ったんだ」
リタは地面に手を触れる。一ヶ月前にリタの知る彼がここにいた。“
“
「リタ」
だから、リタは目の前に
「グレンはトカゲって食べたことある? 鶏に味が似ているんですって。さっき、ラルフが教えてくれたのよ。全然違う生き物なのに、面白いと思わない?」
「……うん。そうだね」
記憶を取り戻すことを決めたグレンではあるが、――おそらく、彼の中にはまだ未来の自分に対する劣等感ともいえる感情が残っている。リタは今のグレンの前で昔の彼を想うような行動をするべきではなかった。気をつけようと気を引き締める。
デイバンでの一件以来、グレンはルーカスにとても懐いている。リタにも心を開いてくれているようで、何かと気遣うような発言をしてくれる。幼い彼の心を傷つけるような真似はするべきではないのだ。
グレンのことを考えるのは後でもいい。そう思って、リタは今のグレンを優先することを改めて決意した。
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