第三章 地図外(アネクメネ)①


 地図外アネクメネについてはリタも多くを知らない。危険な魔獣が棲息する危険地帯。多くの生物がいる、という意味では自然豊かな場所であることぐらいは想像がつく。


 リタたちは街道に沿って、地図外アネクメネ近くまで馬車に乗って移動した。地図外アネクメネは人が立ち入るような場所じゃない。当然、整備された道はない。ここから先は茂みをかきわけ、起伏の激しい山地を進んでいく必要がある。


 今目の前に広がるのは背の高い多年草や低木だ。その向こうには様々種類の木々が生える森が見え、その向こうには山々が広がる。おそらく、リタたちの目的地はここからは見えない遠い場所だろう。一ヶ月以上人里に戻ることは出来ない。父に連れられて、一、二日程度なら狩りのために山に籠った経験はあるが、そのリタでもこれからのことを考えると恐ろしくもあった。


 馬車から荷物を下ろす。それぞれが水筒など最低限の荷物だけ持つ。残りの野営などに必要な資材などは大きな背嚢リュックに詰められた。その運び役に選ばれたのはグレンだ。


 選抜理由は簡単だ。主な戦闘員であるルーカスとエリスは軽装である方が好ましい。イヴァンジェリンとラルフは非力だ。一番体力的に不安のある二人は出来るだけ負担を軽くする方がいい。そうなると残るのはグレンとリタだけ。筋力と体力については一行パーティー内で一位、二位に位置するグレンに任されることになったのだ。


 結局、グレンは戦闘員としては数えられないことになった。ルーカスが「まだ魔獣と争えるレベルじゃない」と判断したためだ。そのことにグレンは安堵しつつも、複雑な表情を浮かべていた。しかし、その代わりにルーカスに「大切な役割だ」と荷物持ちを任され、やる気に満ちた表情に変わった。それなりに体力に自信のあるリタも、グレンが持ちきれなかった少量の荷物をリュックに背負っている。


 そして、それ以外にイヴァンジェリンが用意させたのが弓矢だった。猟師の娘であることも狩りの経験があることも説明していないのに、王女は当然のように「いざという時のために」と渡してきた。弓矢には限りがあるし、これで魔獣を倒せるほどの腕前はリタにないため、本当にいざという時のためなのだろう。もしかしたら、食料確保のときに使えるかもしれない。


 グレンたちが荷物を馬車から下ろしている間、イヴァンジェリンは地図外アネクメネをじっと見つめたまま動かなかった。出立の準備がすむとようやくこちらを振り返る。


「今日は南南東の方角に進みましょう。日が沈む前に野営に向いた岩陰が見つかるわ。今夜はそこで一夜を過ごしましょう。この辺りは中型以上の魔獣の縄張りではないから危険は低いけど、小型の魔獣が襲ってくる可能性もある。十分気をつけて進みましょう」


 彼女の言葉は淀みない。まるで本当に未来やこの先を見てきたかのような口ぶりだ。イヴァンジェリンは今日の方針を伝えると、ここまで役人たちを振り返る。


「後のことは頼むわね」

「はい。お任せください」


 慌てた様子で彼らは頷く。朝食を終えた後、宿屋にやって来た役人たちはすっかり王女の言いなりだった。馬車の手配をし、ここまで御者を買って出てくれた。


(どうやって説得したのかしら)


 王女の行動は国王の意とは相反する。役人からすれば、イヴァンジェリンに協力することは王に逆らうことになるかもしれない。もしかしたら、例の手段脅しを使ったのだろうか。


「さあ行くわよ。先頭は任せたわ」


 一番先を進むのはルーカスだ。その後ろを王女、ラルフ、リタ、グレンという順で進む。殿はエリスだ。前衛の二人が、後衛、そして非戦闘員の四人を囲う形だ。


 周囲を警戒しないといけないルーカスとエリスは人一倍負担は大きい。王女の未来視で魔獣の接近を検知出来ればいいのだが、王女曰く、未来視の能力はそれほど万能ではないらしい。大きな出来事は予知出来るが、細かいことまでは分からないそうだ。本来聖女はもっと自由に未来を予知できるらしいが、それも“地図外アネクメネの魔女”の呪いの影響で出来なくなってしまったらしい。


 その代わりではないが、ラルフが魔法で周囲の警戒を行うことになった。感知魔法といい、周囲の索敵が出来るらしい。こうも草木の生い茂り、多くの小動物や昆虫などがいる地図外アネクメネでは精度は大分落ちてしまうが、中型以上の魔獣の接近は感知出来るらしい。そのため、ルーカスたちは主に小型の魔獣で、凶暴だったり、毒を持つような相手を警戒していくことになる。


 一行は茂みをかきわけ奥へ進んでいく。森に踏み込みまではそれほど時間はかからなかった。地図上でいえば、ここからが地図外アネクメネと呼ばれる地域になる。


 見慣れない植物が多いが、そこはどこにでもあるような森に思えた。沢山の木々に囲まれ、木々のざわめきを聞いていると故郷の山を思い出す。リタは落ち葉や枝、小石が転がる歩きづらい地面を踏みしめながら進む。


 まだ、リタは危険地帯にいるということを実感することが出来ない。今、自分は父と一緒に故郷の山を歩いているのではないかと錯覚してしまう。


 父は山で鹿や猪を狩って生計を立てていた。多くが獣道など獲物が通りそうなところに罠を仕掛ける方法だ。鳥や兎の類を狩るときは弓矢を使っていたが、ある程度大きな動物はそれだけで仕留めるのが難しい。魔導士ほどと言わずとも多少魔法を扱える素質があれば、魔力を矢に籠め、一発で大型動物も仕留めることも可能だろう。しかし、父にはそういった才能はなく、堅実な手段をとっていた。


『山は異界なんだ。本来、人が入っていい場所じゃないんだよ』


 はじめて山に連れていってもらったのが十二歳のとき。父は決して自分から離れないように言い含めてから、そう言った。


『だが、生活をするには山の恵みが必要だ。我々は異界の入り口にお邪魔させてもらっているんだ。だから、山のルールは守らなくちゃいけないし、奥には言ってはいけないよ』


 飛行機も衛星もないこの世界では森や山といった人の踏み入れない土地は未知の領域だ。一般的には国の南に位置する広大な危険地帯を地図外アネクメネと呼ぶが、猟師でさえ立ち入らない山の奥も同じような所だと思う。ただ、そういった場所が身近でない人たちが意識をしていないだけだ。


 地図外アネクメネは間違いなく、父の言う異界の一つだ。故郷の山より未知で、危険な場所だ。その奥地を目指そうとしている自分は間違いなく、父の教えに背いている実感はある。


(……それでも)


 父が生きるために必要だと異界の入り口に何度も何度も足を踏み入れたように、自分も譲れない目的のために異世界に足を踏み入れるのだ。

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