第二章 少年の叫び③


 腕を掴まれる。


「アークライト家の跡継ぎとしてしっかりしなきゃいけない。騎士団でも沢山の部下がいて、俺の復帰を待ってる。見舞いの手紙も届いたんだ。『グレン隊長とまた共に剣を握れる日を楽しみに待っています』って。みんな、みんな、“地図外アネクメネの魔女”を倒した俺のことを待ってる。誰よりも強くて、人の上に立てる俺を待ってるんだ。母上も、父上も、使用人たちもみんな『記憶は戻ったか』『何か思い出すことはないか』って朝昼晩聞いてくる。――皆、俺が一日でも早く元の俺に戻ることを期待している」


 周囲は未熟な自分ではなく、十二年後の成熟した自分を求めている。それはまだ未熟な自分自身を否定されることと、何が違うのだろうか。


 ようやくリタは理解した。


 記憶を失う前のグレンはリタにとって過去のグレンだが、今のグレンにとって記憶を失う前の自分は未来の自分だ。十二年という歳月を経て、大人に成長した遠い未来の存在なのだ。


 今のリタは十九歳だ。十二年後は三十一歳ということになる。そのとき、自分自身がどうなっているかなんて想像がつかない。ある程度精神的に落ち着いた自分でさえそうなのだ。思春期真っ盛りだろう彼にはさらに未来のことなんて想像しづらいだろう。


 腕を掴む力がどんどん強くなる。騎士であるグレンは日頃から鍛えているはずだ。力だってリタよりも何倍も強い。遠慮なく掴まれた手首は顔を顰めてしまうほど痛い。しかし、決して悲鳴だけはあげないように痛みを堪える。


「このままじゃ駄目なんだよ。元の俺に戻らないと――」

「じゃあさ」


 リタは相手の声に負けないぐらい、声を張り上げた。


「一緒に逃げよっか」


 そして、笑顔でそう告げた。


「いいじゃない。アークライト家の跡継ぎとか、騎士団の部下とか。ぜーんぶ忘れて、グレンが自由に生きれる場所を探しに行こうよ。私も一緒に手伝ってあげるから」


 ポカンとグレンは口を開けたまま、固まっていた。

 今のリタの発言はイヴァンジェリンに聞かれたら間違いなく叱られるだろう。だが、そんなことはどうでもよかった。


「グレンは体力も筋力もあるでしょ? 探せば働き口はいくらでもあるって。今みたいな贅沢なくらいは出来ないだろうけど、庶民の暮らしも結構楽しいよ。新しい土地で友達を作ってさ、皆で一緒に飲みに行くの。そういうのもいいと思うんだ」


 リタは反省していた。元々、リタはグレンの記憶を取り戻したくて旅に同行したわけだが、――今のグレンの気持ちを一切考えていなかった。彼からしたら、突然十二年後の未来にタイムスリップしたのと同じ感覚だろう。その上、早く記憶を取り戻すことを周囲から期待されている。そのことを負担に感じないわかがなかったのだ。


 ――リタにも少しだけ憶えがある。


 ある日突然、リタは前世の記憶を取り戻した。この世界より遥かに科学が発展し、価値観も違う世界を生きた記憶はそれまでのリタの価値観を変えるには十分すぎるものだった。

 今まで当たり前と思っていた『普通』に違和感を覚えた。周囲は昨日までと何も変わっていないのに、突然異世界に投げ出されたような感覚に陥った。あのときの感覚は今でも覚えている。


 きっと、今のグレンはあのときのリタと同じだ。なら、リタが何をすべきかは考えなくても分かる。


「グレンが嫌なら、今のままでもいいんだよ。無理して思い出さなくたっていいのよ」


 今、グレンに必要なのは未熟な彼自身を認めてあげる言葉だ。記憶を取り戻せなくて一番苦しいのはグレン自身だろう。彼を追い詰めるようなことを言ってはいけない。


(……本当は思い出してほしいけど)


 でも、そんなのはリタの勝手な都合だ。今のグレンには関係ない。


「何で、そんなこと言うんだよ」


 あれほど強く握られていた手が離れる。グレンは今にも泣きそうだった。


「……さあ、何でだろうね」


 その理由を今の彼に伝える気はない。リタは曖昧に笑う。


「グレンはさ、色々あって疲れてるんだよ。今日はご飯を食べ、もう寝よう」


 皿の上のシェパーズパイに手を伸ばす。そしてそれを無理やりグレンの口に押し込んだ。突然のことにグレンはくぐもった声をあげる。グレンは渋々、という様子ながらも口から半分出ているパイをもぐもぐ食べ始めた。


「どう? 美味しい?」


 シェパーズパイは子供でも美味しく食べれる品だ。きっと、今のグレンだって美味しいと感じるに違いない。リタは自信に満ちた満面の笑みを浮かべる。グレンはゴクンと嚥下する。


「……美味い」


 そう呟いた声音は少し嬉しそうに聞こえた。


「そうでしょ、そうでしょ! 自慢じゃないけど、近隣では一番料理が美味い店って言われてたんだから! ほら、こっちも食べて。まだまだ、あるよ!」


 その後、遠慮がちながらグレンは皿の上の残りのパイに手をつけ始めた。今までは半人前分も食べていなかったのに、今日は無事完食してくれた。リタは上機嫌ににこにこと笑う。


(やっぱり、記憶喪失になっても味覚自体は変わってないのね。作って本当に良かった!)


 グレンの食事が終わると、リタは無理やりグレンを寝台に寝かせる。上から毛布をかけ、リタも寝台の端に腰かける。


「今日はちゃんと寝てね。さっきの件は私から王女殿下に話しておくからさ」


 もっとも、イヴァンジェリンがリタの言葉に耳を貸してくれるかは分からないが、やってみる価値はあるだろう。帰ってきたらグレンの気持ちを尊重するように訴えよう。


 グレンは何かを呟いたが、その声はリタには届かなかった。「なあに?」と訊ねると、「なんでもない」と首を横に振られた。リタは少し考える。


「ね、子守唄でも歌ってあげようか。それとも、何かお話したほうがいい?」


 子供の寝かしつけといえば、子守唄か読み聞かせが鉄板だろう。そう提案すると、グレンは嫌そうに「いい」と首を横に振った。


「おやすみなさい」


 彼は目を閉じる。少しすると穏やかな寝息が聞こえてきた。疲れていたのだろうか、眠りにつくまで早かった。


 リタは薄闇の中、グレンの寝顔を見下ろす。寝息と同様、表情も穏やかなものだ。記憶喪失になってからの彼は精神的に大分不安定だった。ここまで穏やかな表情を見るのは一体いつぶりだろう。


「……グレン」


 小さく、リタは恋人の名を呼ぶ。こうして眠っていると、目の前にいるのは昔と変わらないグレンにしか見えないのに、実際にはもう彼はリタの恋人ではないのだ。そのことはとても悲しかった。グレンの頬に手を伸ばしかけ、リタは考えを改めた。今、ここにいるグレンに二十四歳のグレンを求めるべきではない。


 眠ったグレンを起こさないように、リタは静かに部屋を出る。閉めた扉にもたれかかり、溜息を吐く。


(……本当、自分勝手だ)


 先ほど、グレンにはああ説明したが、やっぱりリタ自身の望みはグレンが記憶を取り戻すことだ。今も幼い頃の彼に、大人の彼の面影を探している。額に手を当て、大きく息を吸う。


(王女殿下が戻ってきたら、さっきの話しなきゃ)


 グレンは寝かせたが、リタにはまだやることがある。ルーカスたちが戻ってきたら、荷物の整理なども手伝わないといけないだろう。リタは皆が戻ってきていないか確認するため、階段を下りる。しかし、ふと思い出し、グレンの寝ている部屋の扉を振り返る。


 あの向こうにいるのはグレンだけど、リタの知らない昔の彼だ。よく知っているけど、よく知らない相手。どういう経験を経て、あの幼い少年はあの青年に成長したのだろう。リタはそれを知らない。


 ――でもね、と思う。


(でも、先にを認めてくれたのは貴方のほうだったんだよ)


 そのことを覚えているのはもう、リタだけしかいないけれど。

 

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