第二章 少年の叫び②
ドキリとした。
この二日間、リタはアークライト邸でグレンと会ったことについては一切話題にしなかった。以前の関係についてもだ。グレンが数日前のことを覚えてない――なんて楽観的な考えはしていないが、まさかそのことを指摘されるとは思わなかった。
「俺の恋人だって言ってた」
あの時、リタはグレンが記憶喪失と知らなかった。まさか、精神的に十二歳まで退行しているとは思わなかったのだ。しかし、事情を理解した今、何も知らない本人に以前の関係性を声高々に宣言するほど図太い神経は持っていない。なんと答えるべきだろうか。
「……うん。昔の話よ」
悩んだ末、リタはそう苦笑いを浮かべた。――リタとグレンが恋人だったのは、今の彼にとって昔の話だ。
「元々、私とグレンは付き合ってたのよ。でも、今はもう何も覚えてないんでしょう? 恋人関係を強要するつもりはないよ」
恋人関係は双方の承諾のもとで成り立つ。今の何も知らないグレンはリタを恋人とは認めないだろう。それなら、今のリタはもうグレンの恋人ではない。
「私のことはただの王女殿下の使用人だって思ってくれていればいいから」
グレンはどこか探るような目をこちらに向けてくる。居心地の悪さを感じていると、グレンが口を開いた。
「何が目的なんだ」
「目的?」
なんとも見当違いの質問な気がする。リタは表情を引きつらせる。しかし、グレンは真面目だった。
「優しくして、俺に取り入って、……アークライト家当主の妻の座でも狙っているのか」
「――は!?」
身分違いの相手と付き合っていれば、邪推されても仕方ないのかもしれない。今までは二人の関係性を知る人間が少なかったからそういった心無いことを言われたことはなかった。――まさか、はじめて邪推してきたのが、記憶を失っているとはいえ当の本人とは思いもしなかった。
「そんなわけないでしょ!!」
リタは激怒した。相手が精神的に子供ということは完全に忘れていた。ダン、と床を叩く。
「別に貴族様に嫁ぎたいなんて思ったことないわよ! お金がなくても、今、私は幸せに暮らしてるんだから! そんなものにはなりたくありません!!」
今、リタは慎ましくも不自由ない生活を送っている。贅沢な暮らしをしたいと思ったことがないと言えば嘘になるが、それ以前にお金持ちには義務が発生することも分かっている。
前世の友人に大きい会社の社長令嬢がいたが、親の仕事関係の付き合いに同行しないといけないこともあるらしい。大変な思いをしていると言っていたのを覚えている。それに、そんな考えでお金持ちと結婚するなんて、相手に失礼だと思う。
「それに」とリタは言葉を続ける。
「そもそも、私結婚願望ないから。誰でも彼でも玉の輿を狙ってるって思うのはやめてくれる?」
リタの故郷では女性の結婚適齢期は十五、六歳だ。リタにも縁談が持ち上がった。相手は村の青年だった。リタは彼と結婚するのが嫌で、王都に出てきたのだ。そのときに一生結婚しない覚悟も決めた。それにも関わらず、玉の輿を疑われるのは甚だ心外だった。
「女が一人で生きてくなんて無理だろ」
男女平等なんて言葉の存在しないこの世界では女性の地位は低い。独身の女性が生きていくには厳しい世界だ。だから、殆どの女性たちは結婚していく。
「無理じゃないわよ。元々働いてた酒場の女将さんも独身だったもの。女将さんを見習って生きていこうと思っていたのよ」
しかし、例外は存在する。その数少ない一人が酒場の女将だった。結婚しないで一人で生きている女性が身近にいることはひどくリタを安心させてくれる。
「普通に考えて、ただの田舎娘と貴族の跡取り息子が結婚するなんて無理でしょう? 身の程ぐらい弁えてるわ」
勿論、惚れた弱みはある。もしかしたらグレンとなら結婚出来るんじゃないかとか妄想したことはある。でも、それは叶わないと分かっている夢だ。そのことは今のグレンには伝えない。伝えても誤認される可能性が高いと思ったのだ。
グレンは「変だ」と呟く。
「じゃあ、何で俺と付き合ってたんだよ」
「そんなの、グレンのことが好きだからに決まってるでしょ!」
なんと分かりきったことを聞いてくるのだろう、とリタは勢いよく答えた。答えてから、自分が恥ずかしいことを口にしたのではないかと気づく。顔が熱くなる。
「好きな人と付き合うってそんなおかしなことじゃないでしょう?」
いや、むしろ、ごく当然のことだと思う。そんなことも十二歳のグレンは分からないのだろうか。
グレンはその言葉に何故か俯いてしまった。
本当に今のグレンはどんな言葉を嫌がるのかがよく分からない。グレンは自分自身のことはあまり話さなかったから、リタは彼の幼少期のことを何も知らない。今度王女にでも話を聞いてみたほうがいいだろうか。
「お前もやっぱり、大人の俺の方がいいんだな」
ポツリと彼が呟いたのはそのときだ。言葉の意味が最初理解出来なかった。ただ、彼の声音は震え、明らかに傷ついたものだった。
「……それは、どういう意味?」
「ガッカリしただろ。昔の俺がこんなに情けない人間で。失望しただろ」
失望なんてしていない。驚きはしたが、子供時代なんて精神的に安定していなくて当然だ。
二十四歳のグレンは肉体的にも精神的にも安定しているが、今のグレンは安定性を手に入れる前なのはなんとなく分かっている。尊敬する相手――例えば酒場の女将が子供の頃、とんでもなく気弱な性格だったとしてもリタはガッカリなんてしない。「そういう時代もあったのか」と思うだけだ。それは今のグレンにも当てはまる。
精神的に十二歳のグレンを今も愛しているかと聞かれると少し疑問ではあるが、彼のことを嫌いになんてならない。何故、彼はそんなことを言うのだろう。少し考えて、ふと思いついたことを訊ねた。
「……誰かに、そう言われたの?」
十二歳のグレンは自己肯定感が低い。おそらく、自分に自信がないのだろう。そのことは二日前の馬車でのやり取りからも窺える。そして、子供がそういう考えをするようになるのは、周囲の環境の影響が大きいのではないだろうか。
グレンは何も答えなかった。リタは蹲るグレンの背に手をあてる。
「記憶を失う前と全然違っても当たり前だって思わない? だって、十二年も経ってるんだよ。その間全く変わらないって成長してないってことだよ。立派に大きくなったって証じゃない。貴方は十二歳なんでしょう? ちょっとぐらいはしかたないよ」
リタは少しでもグレンを慰めたくてそう言った。しかし、彼は顔をあげると、「違う」と力強く反論した。
「今の俺はもう大人だ。子供の頃と一緒じゃいけないんだよ」
こちらを見つめる緑の瞳はどこか焦点が合っていない。どこか、錯乱しているように見える。
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