プロローグ④
「あら。貴方の頭に詰まっているのは綿菓子か何かなのかしら。ちょっと考えれば推測ぐらいできるのではなくて? ――もっとも、浅慮でなければ、アークライト邸に忍び込もうなんて考えなかったでしょうけれど」
イヴァンジェリンの言葉に反論が出来なかった。
確かにもっと頭が良ければ、こんな愚かな手段でグレンに会おうとはしなかっただろう。しかし、王女が自分に会いに来た理由が全く思いつかない。
王女は周囲に視線を巡らせる。
近くにあった見張り用の壊れかけの椅子を見つけると、リタの牢の前まで引きずる。そして、そのまま腰を下ろした。
「聞いたわ。貴方、グレンの恋人なのですってね。彼に会いに行って捕まったんですって? 愚かなことをするものね」
その言葉でようやくリタは気づいた。彼女にとって、リタは夫になる人物の恋人を名乗る不届き者だ。そんな相手を放っておけるわけがない。
「でも、気持ちは分かるわ。『戻って来る』と約束した恋人にまさか王女との縁談が持ち上がるなんてね。しかも、当の本人からは説明がないどころか、何の連絡もない。とっても不誠実よね。裏切られたと思っても仕方がないわ」
何故、彼女がグレンとリタしか知らないそのやり取りを知っているのだろう。理由は考えるだけ無駄だろう。聖女に与えられた能力の一つに、人には見えないものを見通す力がある。彼女にはグレンがリタに交わした約束の内容も視ているのだろう。
思わず、リタは反論する。
「グレンはそんな人じゃない」
少なくともリタが知るグレンは、約束を破ってそれを良しとする人ではなかった。誠実な人だった。決して、他の女性と結婚するために恋人と連絡を絶ち、うやむやのまま関係性を終わらせるような人ではない。――今はその気持ちが少しだけ揺らいではいるけれど。
リタの言葉にイヴァンジェリンはクスクスと笑い始めた。
今日はよく嗤われる日だ。どこか馬鹿にされているようで嫌でしかない。リタがおかしなことを言ったとでも言うのだろうか。
「そうね。貴方の言うとおりだわ」
しかし、王女が口にしたのは同意する言葉だった。
「彼に会って、何と言われたのかしら」
「……『お前、誰だ』って」
「ええ、そうでしょうね。グレンは貴方のことを忘れているわ。貴方のことだけじゃない。ここ十二年ほどの記憶を全て失ってしまっているのよ」
「驚いた?」と訊ねる王女は愉快そうだ。リタは何も反応を返せなかった。
確かに、記憶を失ったとすればあの反応に道理は行く。
リタとグレンと付き合いだしたのは一年前。そもそもはじめて出会ったのは二年ほど前のことだ。今年グレンは二十四歳だから、王女の話が正しいのであれば今のグレンは十二歳頃の記憶しか持たないということになる。
その頃、まだリタはグレンと出会っておらず、グレンの反応も当然のものだ。
思い出してみると、今朝方見たグレンの声はどこか高く聞こえた。話し方もいつもの落ち着いたものではなく、どこか幼さがあった気もする。
考えれば考えるほど、王女の話には信ぴょう性が出てくる。しかし、そうなると疑問に思うのは一体、どうしてそんなことになっているかだ。
リタが訊ねるまでもなく、イヴァンジェリンが答えを口にする。
「それもすべて、魔女の仕業よ。彼女の呪いで、グレンは十二年間の記憶を奪われてしまったの」
それはグレンが討伐した“
「このまま、時間が経って彼の記憶が戻るとは思わないことね。魔女の呪いを解かない限りは彼の記憶も永遠にあのままよ。そうなったら、――うふふ、きっとグレンはこのままわたくしと結婚することになるわね。恋人の貴方の存在を一生思い出すこともなく、自分が誰かを裏切ったことも知らずに生きていくのよ。滑稽だと思わない? 貴方も、グレンも」
クスクスと笑い声をあげる王女は、どう見ても聖女の姿とは程遠かった。人でなしか、悪魔――そう、聖女なんて言葉は彼女に相応しくない。彼女こそが魔女ではないだろうか。
リタは歯を食いしばる。
その様子を見て、イヴァンジェリンは突然笑うのをやめた。立ち上がり、牢屋の柵に近づいて来る。
「ねえ、グレンの記憶を取り戻したいと思わない?」
そうして、彼女は悪魔のように契約を持ちかけてきたのだ。
王女は嗤う。
「今の記憶を失ったままの彼は、果たして貴方の愛した彼なのかしら。ねえ、恋人が生きて帰ってくれば満足? もう一度、貴方が愛した、貴方を覚えいるグレンに会いたいと思わない?」
この時、リタには全く王女の思惑が分からなかった。
でも、確かに彼女はリタに一縷の望みをちらつかせた。リタを覚えている、リタの恋人と再会出来る可能性があることを言外に示したのだ。
リタは立ち上がる。ふらふらとイヴァンジェリンに近づき、牢の柵を掴む。
「――グレンの記憶が取り戻す方法があるんですか?」
あの晩、グレンは約束してくれた。
『絶対に戻る』と。『信じてくれ』と。『絶対に帰って来るから』と。だから、リタは待っていた。グレンが戻って来るのを信じていた。
なのに、今日、再会したグレンはグレンじゃなかった。リタのことを覚えていない。一緒に過ごしたあの日々を覚えていない。そんなのはリタの知っているグレンじゃない。
とても自分勝手だが、リタにはそう思ってしまった。
だから、リタはリタにとっての『本当のグレン』を取り戻したくて、リタは王女に問うた。
彼女がグレンの結婚相手であることも、彼女にとってグレンが記憶を取り戻さない方が都合がいい可能性も全て頭から消え去っていた。
「安心なさい。彼の記憶を取り戻す方法はまだ残されている。その為には貴方の協力が必要不可欠よ」
イヴァンジェリンは手をこちらに差し出す。その手は労働を知らないかのように、白く細く美しい。
「グレンの記憶を取り戻すために、危険を冒す勇気はある?」
王女は真っすぐにこちらを見つめる。
「もしかしたら大怪我を負うかもしれない。もしかしたら命を落とすかもしれない。わたくしは未来を視ることが出来るけど、これから起きること全てを知っているわけではないわ。彼を取り戻すためには、貴方は何かを犠牲にしないといけないかもしれない。でも、このまま牢屋で塞ぎ込んでても、呪いを解くことは不可能よ」
イヴァンジェリンは怖ろしいくらい綺麗な笑みを浮かべる。
「グレンを取り戻すために、わたくしの手をとれる?」
逡巡は一瞬だった。リタは無礼を承知で、イヴァンジェリンの手に触れる。
「出来ます」
リタは真っすぐ王女を見つめ返す。
「グレンが戻って来るなら、何でもやります。何だって出来ます」
イヴァンジェリンはどこか満足そうに「欲望に素直な子は嫌いじゃないわ」と笑った。
王女は懐から鍵束を取り出すと、リタの入っている牢の入り口を開けた。
「出なさい」
困惑しながらもリタは扉をくぐる。隣に並んだイヴァンジェリンはリタより少し背が低い。歳だってリタの方が年上だ。なのに、彼女からは底の知れない怖さを感じる。
イヴァンジェリンは牢屋の扉を閉めるとこちらを振り返る。
「今日からお前はわたくしの下僕よ」
リタは頬を引きつらせ、「はい?」と訊ねる。
「これから先、わたくしが苦労することのないように全力でわたくしの世話をするのよ。魔女の下へたどり着くまでの間ね」
彼女の言葉の意味が分からない。イヴァンジェリンは続ける。
「“
すぐに彼女の言葉を吞み込めない。では、国王の発表はなんだったのか。混乱するリタに、イヴァンジェリンは落ち着いた口調で告げる。
「わたくしはこれから“
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