プロローグ③
毎朝アークライト邸には食料や荷物を運ばれる。
その馬車に忍び込んだリタは、樽や木箱の間に体を刷り込ませた。馬車が揺れる度に両隣の荷物に体を潰されながらもリタはアークライト邸に潜入することに成功した。
御者が荷物を運び出すタイミングを見計らって、するりと近くの茂みに体を隠す。幼い頃からかくれんぼは得意だ。驚くぐらい上手く物事が進められた。
しかし、上手くいったのはここまでだった。
その後、リタは何とかグレンに会えたものの――全く予想外の反応をされ、すぐに現れた警備に捕まって騎士団に突き出された。騎士団の施設に移送されたリタは尋問を受ける。その後、牢に放り投げこまれてしまった。
「……嘘だ」
リタは冷たい石畳の上で膝を抱えて座ったまま、呟く。
早起きをし、貴族の屋敷に忍び込み、尋問を受け、すっかりクタクタだ。しかし、今は体の疲労よりも、精神的な疲労の方が大きい。まるで身を起こす気分にならない。
目を閉じれば、アークライト邸でのやり取りが鮮明に思い出せる。
どうにか建物内に入れないかと敷地内をウロウロしていたリタのすぐ傍にグレンが姿を現した。
『グレン!』
朝の空気を吸いにか、庭先に姿を現したグレンにリタは後先考えずに話しかけた。突然のことにグレンは警戒を露わにする。そんなことも気にせず、リタはグレンに駆け寄った。
『よかった! やっと会えた!』
このとき、リタは違和感にすぐ気づくべきだった。
視線は合っている。グレンにとってリタは顔見知りの相手だ。なのに、彼はこちらに対して異常なまでに警戒心を解かなかった。表情には困惑の色が広がる。
グレンは距離を取るように後ろに下がった。
『グレン?』
別の女性と結婚しようとしているときに昔の女が現れて警戒している、という風でもない。彼の態度は完全に屋敷に忍び込んだ不審人物に対してのものだった。
不安に満ちた声が響く。
『お前、誰だ』
『…………え?』
その言葉に、リタはろくな反応を返せなかった。
嫌がられるかもしれない。屋敷に忍び込んだことを怒られるかもしれない。もしかしたら久しぶりの再会を喜んでくれるかもしれない。――グレンの反応は、そういったリタが想像していたどれとも違っていた。
彼の顔に浮かぶのは明らかな警戒と、困惑、そして恐怖の色だ。それは決して、リタに対して友好的なものではない。リタはグレンの言葉と、態度にひどく衝撃を受けた。
『誰か!』と女性の声が響いたのはそのときだった。
屋敷の使用人らしき女性が、
『何の目的で屋敷に忍び込んだ!』
『わ、私は』
混乱しているリタは男たちの問いに思ったことをそのまま答えた。
『グレンの恋人で、グレンに話があって』
男たちは顔を見合わせる。
とんでもない虚言を吐く不審者だと、捕縛する腕の力を強めた。それを少し離れた場所でグレンが見ていた。彼の周囲には守るように使用人たちが何人も立っている。リタはグレンと視線が合ったことに気づき、『グレン』と恋人の名を呼んだ。
しかし。
『お前なんて、知らない』
彼の返事は冷たいものだった。
『グレン様、お部屋に戻りましょう』と周囲に促され、グレンは建物内に姿を消す。
残されたのはリタと、リタを取り押さえる男たちだけだ。その中の一人が騎士団に連絡をするように指示を出す。
リタは呆然と先程まで恋人がいた虚空を見つめるしか出来なかった。
そうして移送された先でリタは事情聴取を始めた騎士の男にありのままの事実を伝えた。
しかし、どう見ても普通の田舎娘――王都に来て三年で大分垢抜けたつもりではあるが、発音にはどうしても東部出身者特有の訛りが残っている――が、『救国の英雄』の恋人を自称しているのだ。彼らは大笑いをし、リタは人生で一番と断言出来るほどの屈辱的な時間を過ごした。
あのときのことはもう二度と思い出したくない。
「…………何でこんなことになっちゃったんだろ」
グレンに直接会いに行けば、なんとかなると思っていた。フラれるにしても誠実な対応をしてもらえるだろうと。
ところは実際はリタを知らないと言い出した。
一ヶ月ぶりに再会したグレンの姿を思い出す。
あのときの反応は嘘をついているように見えなかった。本当にリタのことなんて知らないとでもいうような、見知らぬ相手に向けるもののようだった。一体、この一ヶ月で彼の身に何が起きたのだろう。
分からない。分からない。どれだけ考えても答えが出るはずなどなく、リタは思考の迷路に陥っていた。
コツ、コツと。足音が近づいてきたのはそのときだった。
巡回の騎士のものだろうか。足音はどんどん大きくなり、リタの正面で止まった。俯いていたリタは不思議に思い、顔をあげる。
「随分と惨めな姿ね」
響いたのは鈴のような声だ。リタはまじまじと相手を見つめた。
そこにいたのは美しい少女だった。
年は十代半ばくらいだろうか。薄紫の艶やかな長い髪に、灰色の瞳。儚げな雰囲気を持ち、上品なドレスを身にまとった姿から身分の高さが窺える。
彼女には見覚えがあった。
毎年王都では神の降臨を祝った大聖祭というものが開かれる。その際には広場で聖女が祭事を執り行う。一目彼女を見ようと毎年多くの人が集まり、リタも見に行ったことがある。
目の前にいる少女はその時、祭具を持ち、祈りを捧げていた人物――聖女である、第一王女イヴァンジェリンだ。
遠目にしか見たことがないが、これほどの美貌の持ち主はそうそういない。間違いない。
「あまりの惨めっぷりに多少哀れに思えてきたわ。可哀想ね、貴方」
イヴァンジェリンの物言いに、リタは驚きのあまり何も言えなかった。
リタの知る限り、イヴァンジェリンは『民衆に分け隔てなく優しく、慈悲深い』と評判の聖女だ。
不治の病にかかった平民を何人も治癒し、『全て主の御意志です』と一切の謝礼を受け取らない。民のどんな小さな言葉にも耳を傾け、上奏していくれる。まさに聖女を体現したお方だという噂を何度耳にしている。
まさかそんな人物から暴言に近い言葉を投げかけられるとは思ってもいなかった。
「何、その間抜けな顔。黙ってないで何か言ったらどう? わたくしは物も言えない子犬に会いに来たわけじゃないのよ」
暴言に近いではない。暴言だった。衝撃を受けていたリタはやっとのことで口を開く。
「な、何で王女殿下がここに」
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