内海

よるめく

第1話

 水柱が天を衝く。ねじれて巨大な竜巻と化し、異形の魚類をまき散らす。


 ぼとぼとと地に叩きつけられたそれらは、分厚い筋肉と甲殻に覆われた手足で丘のような巨体を起こして歩き始めた。彼らは魚だ。しかし貝や、甲殻類の特徴を持ったものもいる。


 魚は起き上がった個体から順に、大挙して四方八方へ広がっていく。目につく命を踏み潰し、雄叫びと生臭い粘液を振りまいて、蹂躙していく。


 それの目的がなんであるかは、誰も知らない。ただ世界中で同じことが同時多発的に起こり、人類は大体滅んだ。草木は枯れ、山は穢され、大気に消えない磯の匂いが染みついた。


 汚染するだけ汚染して、魚は去った。地上に置き去りにされたり、なぜか住み着いた個体を残して、綺麗さっぱりと。今はどこで何をしているのやらである。

 しかし武井まもるにとって、そんなことは既にどうでもよくなっていた。


 魚臭い空気の中でベッドから起き、鏡の前に立つ。そして顔を洗いかけて手を止める。鏡に映った自分の頭部、左目から上には大きな巻貝のようなものができていて、触るとごつごつした感触。残った右目は、どろりと濁っている。


「……はあ」


 まもるは顔を洗うのを諦めた。どうせ、見せて困るような他人はもういないのだ。気にしても仕方あるまい。


 べたべたした空気、べたべたした床。壁にはカビとも海藻ともつかない何かが這いまわっている。おかげで靴下を履く気も起きない。


 もっとも、この頭なので、着替えようにも上手くいかない。そもそも、服は湿気のせいでダメになった。おかげでブラとショーツぐらいしか身に着けられていないのが現状である。もう、どうでもいいけど。


 ベランダに出て外を見やると、そこには“内海”があった。


 かつては精緻なジオラマのように都市があった場所にぽっかり開いた、超巨大な水の穴。彼方に見える水平線と同じ色をした水面がさざ波を立てる。数十キロは離れているはずの場所だが、まもるの耳には確かに潮騒が聞こえてきていた。


 “内海”。なるほど、わかりやすい名だ。地面が口を開くように生まれたそれは、まさしく大地に生まれた海である。


 おかげさまで都市は壊滅したらしい。幸い、まもるが暮らす山の上まではこなかった。魚はやはり、登山するより海を泳ぎたいらしく、反対側の海岸線へ流れ出ていったからだ。おかげでまもるはこうして生きている……少なくとも、今のところは。


「……で? あんたはいつまでここにいるつもり?」


 手すりにもたれ、コテージの真下へ問いかける。


 白いキノコのような、花のような、イソギンチャクか何かのような、よくわからないものに覆われた地上を、同じく白くふわふわした人間が歩いていた。


 大きく広がったスカートに帽子を身に着けた、貴族の子女のような姿の誰かは、鼻歌を歌いながらくるくると踊っている。まもるのことなど気にもかけずに。


 まもるは頭の貝殻を掻きながら尋ねる。何度も繰り返した問いを。


「ぼくをこんなにして、一体何がしたいんだ?

 食べるつもりか? つがいにする気か? それとも、あの“内海”へ引きずり込むのか? 彼女のように?」


 少女は答えない。だが、少なくともステップは止めた。ベランダのまもるを見上げて何かを言おうとする……が、あふれ出るのは水泡が湧き上がるような音ばかり。


 まもるはうんざりして、身を翻した。


 “内海”が生まれ、都市が滅んで、もともとの同居人は去った。都市の様子を見てくると言って。彼女が帰ってくることはなく、やってきたのはクラゲのような貴婦人だった。


 これがもしも映画なら、あれが同居人の生れの果て、というオチがつく。まもるは変わり果てた恋人を抱きしめ、滅んだ世界を旅したり、“内海”の謎を解き明かすべく奔走するのだろう。そんなことをする気は無い。そんな夢を見もしたが、あの貴婦人に抱き締められて全てが終わった。


 クラゲのように白く透明感のある肉体は、人間のそれと大差ない。彼女はコテージの中で縮こまっていたまもるの前に現れて、抱きしめ、問答無用でキスをしてきた。スカートの裾を彩る触手がまもるの体に針を刺し、こんな体に変えてしまった。頭部に巻貝を生やした女の姿に。


 まもるは自分の胸元を見下ろす。膨らんだ胸は白く、張りがあって瑞々しい。包んでいるのは恋人が持っていた下着だ。後ろめたさしかないが、仕方ない。


 それを背後から、白く透き通った手が掬い上げた。


「ん……っ!? やめろ!」


 振り返りながら腕を振って、背中に抱き着いた少女を払う。


 いつの間にか背後に来ていたクラゲじみた少女はクスクスと笑い、まもるの周囲を嬉しそうに舞った。


 まもるはクラゲの少女を忌々しく睨む。何が楽しいのか、こんなスキンシップをしょっちゅう取ってくる。未だ帰らぬ恋人とは大違いだ。彼女はまもるとの触れ合いを恐れた。触れ合えば、実った恋がシャボンのように弾けてしまうと、そう思っているかのように。


 近づかれては、追い払い。近づかれては、追い払う。寄せては返す波のように、クラゲの少女はまもるに触れようとした。まもるはそれを許さない。


 それが何度か繰り返されたあと、クラゲの少女は不意に窓の外を指差した。


「いかない」


 まもるはそっけなく答え、寝室へ戻ろうとする。


 行けない。行ってはならない。左耳から注がれてくる潮騒が、あのクラゲの少女の誘いが、恐ろしいものだと理性に告げる。


 胸の奥が滾り、渇く。その感覚は恐ろしいものだ。そして同時に直感もある。恋人はきっと、この呼び声に負けたのだ、と。

 今日で恋人が去って一年。クラゲの少女が来てから半年。おそらくまもるの恋人はもう、あの“内海”に沈んでしまったのではないか。いずれまもるも、そうなってしまうのではないか。変わり果てた姿で、人ですらなくなって、海の底ですれ違うのではないか。


 日に日に強くなる“内海”への誘惑と、首を絞める不安感を抱えたまま、まもるは今日も諦め潮臭いベッドに潜り込もうとする。


 クラゲの少女は、不服そうな顔をして首をかしげたが、やがて何かを思いついた。


 爪先をぽわんと弾ませて、気配に気づいて振り返ったまもるに飛びつく。

 スカートの前が左右に裂けて、ショーツを履いたまもるの腰を飲み込んだ。


「なにを―――!?」


 まもるの抗議しかけた口が塞がれる。口の中に湿った生暖かさが滑り込み、まもるの舌を蹂躙し始めた。スカートの裾から伸びた触手がまもるの全身に針を刺す。


 あの時と同じだ。クラゲの少女がここを訪れ、まもるを女にしたときと。


 まもるは瞬時に少女を押しのけようとしたが、閉じたスカートに腰をホールドされた上に力が強くて振りほどけない。

 それどころか、爪先が重力を無視してふわりと浮かぶ。ばたばたと足を泳がせ、藻掻きながら、まもるは無意味な抵抗をする。


 体に暖かな海流が流れ込んでくるかのようだ。心地よく、全身に染み渡り、とろけさせていくような。


 潮騒が近づいてくる。残った右目が左側から塞がれていく。


 大きく育ち始めた貝殻は、クラゲの少女をも飲み込んで大きくなり、ふたりを包み込んでいく。


 視界が塞がれ、手足の自由が利かなくなり、まもるは完全に巻貝の中へと閉じ込められる。だが、暗くはない。青く透き通っていて、穏やかだ。潮騒が全身を取り巻いている。


 ―――そうか……ここが“内海”なのか。


 まもるは唐突にそう悟った。


 彼女は“内海”へ行った。そして海は命を育み、新たな“内海”を作り出す。


 クラゲの少女は恋人ではない。だが、確かにまもるの愛する人を知っている。まもるの愛する人がどうなったかも。


 空を仰げば水鏡。そこに見慣れた女性の姿があった。まもるが恋した女性の姿が。左側頭部を覆う貝殻はない。


 まもるは空の海へ手を伸ばした。向こうも同じようにする。


 手が触れ合い、吸い込まれていく。水に映った自分自身と同化していく。


「―――ぷはっ!」


 ばしゃっ、と音を立てて、まもるは水面から顔を出した。


 そこは山の上のコテージでもなく、狭い貝殻の中でもなく、“内海”であった。


 果てしない水面と、遠くにさっきまでいたはずの山が見える。一体どうしてこんなところに? どうやって移動してきた?


 あのクラゲの少女の姿も見えない。きょろきょろと周囲を見回して、まもるは水面に目を向けた。


 頭の左側に巻貝が無い。顔立ちも、髪の色も違う女性の姿が揺れていた。


 まもるは、“内海”に消えた恋人になっていたのだ。

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内海 よるめく @Yorumeku

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