第17話 その文体に恋をする。

木枯らしが窓を吹き抜けて、薄黄色のカーテンをひらひらと揺らす。

放課後の教室は、寂しくて少し暖かい。

嗅ぎ慣れた切ない暮れの匂いと、混ざるような古書の独特な香り。

私は机上の文集に手を伸ばして、癖がつくほどに開いて眺めたページを開けた。

刹那として胸に迫る、想い。

黒々と印字されたそれは輝くように私を誘い、私はそれに、焦がれるように手を伸ばす。

さらさらとした紙の感触。

微かに香るコピー紙の匂い。

触れた線は滑らかに指先で踊り、跳ねる。

時として真っ直ぐに、時として緩やかに。

見慣れたはずの明朝体は、まるで芸術品のようにその質量を主張した。

吐息が漏れる。

鼓動が逸る。

苦しいほどの衝動に、胸が限界だと叫んでいる。

火照った頬を撫でる涼やかな風も、外から聞こえる学生の声も。

今は、どんなものでも気にならなかった。

ただ、視線の先に存在する文字に、焦がれて。

タイトルを、また本文を。

一文字として見落とさず、一単語として逃すことなく。

全てを攫うように指先でなぞる。

そうして、ようやく辿り着いたその名前に触れれば、指先にぴりりと電流が走った。

それは軽やかに。

そして俊敏に。

私の脊髄、それから脳を。

余すことなく侵食していく。

なかば無意識に漏らしたその名前は、聴覚さえ過敏に震わせた。

水底に、深く囚われていくような。

力を抜いて浮かぶくらいなら、このまま深く溺れたい、なんて。

抵抗することもなく深く沈んで、海底から見た地上の光は、遠く。

微かに、けれど確かに輝いていた。

苦しい、けれど。

この酸素が全て潰えたら。

体内が全て、この液体で満たされたら。

それはどんなに素敵で、甘やかなことなのだろう。

教室で一人佇む私と、深い水底に沈む私。

その全てが重なってしまったら、きっと。

ほろほろと、何か溢れだしたものが頬を伝った。

やがて唇に到達したそれは海水のように塩辛く、そしてどこか耽美で甘い。

流れ落ちた雫が紙に滲んで、溶けるように染み込んでいく。

私はその光景を、ただ何もせずに見つめていた。

指先を艶やかに彩る名前に触れる日は、きっとない。

その光景を見つめることも、その感情を分け合うことも、私には到底叶わない。

叶わない、けれど。

それでも、確かに視覚を満たすそれが広がっているのなら。

それなら私は。

きっと、何回だって、この文章に捕らわれる。

たとえそれが絵空事でも。

私の夢物語でも。

胸を締め付けるこの感情は、間違いなく本物だから。

今日も私は、この文章に焦がれている。

死んでしまいそうなくらいに、ひどく強く惹かれている。

胸を押さえて、深く息を吸う。

ようやく感じた現実の空気は、深海よりもずっとずっと。

退屈で、重苦しかった。

つまらない日常に、驚きを一匙。

そう言って笑ったあの日の人影が、そっと。

この文体に、触れている気がした。

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