第三十四話 魔の宮へ

 目を開けると真っ白な天井が視界を支配した。


 どれほどの間気を失っていたのか。まだ重たい己の意識を覚醒させて、薬師峰は自身がベッドの上にあることをようやく認識した。


「気が付いたようだね」


 柔らかい男の声が部屋の扉から聞こえた。


 そこにはもう一柱の吒枳尼天が微笑みをたたえて立っていた。


「先ほどはごめん。強引な手を使ってしまって」


 吒枳尼天はボトルからミネラルウォーターを二つのグラスに注ぐ。


「儀門にはもっとちゃんと説明したほうがいいと伝えていたんだが……計画は急ぐからと」


「……あなた達の目的は……何?」


 まだ意識がはっきりとしないのか、薬師峰の受け答えはたどたどしい。


「君と同じだよ。僕の望みは人の望みを叶えること、つまり儀門が成すことを叶えることにある」


「……儀門の望み……?」


「そう。儀門はこの世の仕組みを変え、それによる衆生救済を目指しているんだ。」


 吒枳尼天は体を起こした薬師峰に寄り添うようにベッドに腰掛けた。


「君が救おうとした人を結果的に殺めてしまった。それは僕から謝る。すまなかった。でも大いなる浄化の為には仕方のない犠牲だったんだ」


「……大いなる浄化?」


「この国の仕組み、いやこの国から世界の全てを変えるんだよ。

 そのための戦士と眷属を集め、同時にこの地に眠る竜を呼び起こす。封印を解除するために正宮山と、それつながるの地を手中に収める必要があったんだ」


「……眠る竜……この地を作った大地ののこと?」


「やっぱり解っていたね。大地の、中央構造線というのが一般的な言い方だね。」


 吒枳尼天が身を乗り出し、薬師峰の手に触れる。


「だから、キミの力が必要なんだ。瑠璃、いやもう一柱の吒枳尼天。前にも言ったように、僕達は陰と陽、本来一体であるべき存在なんだ」


 甘い香りとともに彫刻のように整った白皙の面貌が近づく。


 薬師峰の視線に黄玉トパーズ象嵌ぞうがんを思わせる瞳の輝きが映る。


 いけない、と思っても遅かった。


 もう片方の手が薬師峰の髪を撫でた。


 そのまま、女のように細い指が細い首をなぞり、どの角度から見ても整った顎のラインに至った。


 その動きだけで女の思考はとろけだしてしまう。


 かかる吐息も、脳が痺れるほど甘い。


 ゆっくりと唇に唇が近づき、重なった。


 妖艶にして耽美。


 他に見るものがあればその姿を見るだけで頂きに登り詰めるほどである。


 一度唇を離して、男は女の様子をたしかめる。


 瞳孔が開き、上気して頬が桜色に染まっていた。


 さらに唇を重ねる。赤い唇を再び奪った後、舌が口腔をぬるりと犯した。


 女もそれを受け入れ、自らの舌を絡めつける。


 理性を放棄した、快楽だけが支配する世界へ、ゆっくりと堕ちはじめていた――。


 ◇



 正宮山の登山メインルート、表登山道前には、正宮山ウォーキングセンターという登山の拠点施設と、登山客用の駐車場がある。 


 下弦の月がか細く光る。


 流石に夏の深夜帯、登山客の車はなかった。しかしながら、登山客らしい格好の人影が数名、表登山道の入口にたむろしている。


 その集団に懐中電灯を持った人影が近づいてきた。


「こんばんは〜。あれぇ、なんか人いるやん?」


「ああ、こんばんは。登山の方ですか?すみません今日はイベント中で」 


「へぇ、それはッ!!」


 柔和そうに話しかけてきた二人への返答は強烈な殴打に変わった。


 二人ほぼ同時、一瞬で崩れ落ちる。

 他の人間はそれに気づく前に二つの影が背後から忍び寄り制圧されている。


「無関係だったら、スマンなと思ってたけど、関係ありありやな」


 懐中電灯で照らした彼らの胸元にはリンドウをモチーフにしたピンバッチが輝く。


「かがみ、のんびりしている暇はねぇぞ、卜部、入口は制圧完了した」


『了解。露払い組は攻勢開始。三十秒後に我々も突入する』


 卜部の声を合図にして、三つの影が林道に進入した。


 ここから車輌を先導しつつ、忠平の強化された聴力で敵の襲来を感知する。


 明かりも最小限、忠平に至っては真っ暗な中を先行する。強化された聴覚と嗅覚、獣のように夜目が効いているのだ。


『狐、右前方の谷から二匹。排除後、車を通してから渡辺ナベが援護』


 『天網』は用いていない。車両に搭載された暗視システム、熱探知を用いて敵の存在を把握しているのだ。


 忠平は点在する魔獣に音もなく近付き、黒い棒状の得物を叩きつけ、返す刃でもう一頭も頭部を跳ね飛ばす。


 忠平の得物は鉄の剣シャベルだ。ただのシャベルではない。事前に刃先を研ぎに研いで、固い木の根すら切断できるだけの業物に仕上げてある。 


 すでに矛のような幅広の刀身は赤黒く染められて、それがか細い月明かりを受けて妖しく光った。


 車で走行ればビジターセンターまで三十分も掛からない距離である。しかし、つづら折りの狭く暗い山道を何度も曲がり続けると、それが永遠に続くかのような感覚が生じた。


 急に忠平が立ち止まった。


「残念ながら、ここでストップだ」


 右手を上げて後続を制した。

 

 金戸石と颯のライトが前方に立ち塞がる自動車大の大岩を照らしていた。


『十分接近できたわ。すでに天網の展開領域に入っている。あとは金戸石……やれるよね』


「当然。コンちゃんがやったあとでな」


『狐、ここからアンタだけで行きなさい。谷を回り込んで指定座標に向かって。そこから持ってきた武器で目標を投擲攻撃。タイミングは任せる』


 颯が、小型の端末をかざして経路を見せる。


「武器はあんのか?」


「大丈夫だ、心配ない」


 忠平は谷を一気に下って、そこから細い杉の植林帯の斜面を一気に駆け登る。

 

 忠平は生物反応のある奥宮を避け、ものの十分もかからず山頂域へ到達した。


 芝生の広場があり、そこから駐車場を挟んで白い建物が塔のように屹立きつりつしている。

それがビジターセンター『正宮の杜』でその最上階が目標だ。


 斜面に身を隠しつつバックパックにあるグラスファイバー素材のパイプ状のものを取り出し組み立てる。


 テントポールを改造したそれの先端に焼き締めた鋼鉄の先端部を取り付けた。


 無骨で不格好な即席の槍。


 それにさらに無骨な器具を取り付ける。


 いわゆる投槍器アトラテルというやつだ。

 

 それで十分であった。

 

 距離にしておよそ百五十メートル。


 強化された筋力とこの器具を使って確実に到達させる。


 はたしてこれで薬師峰を目醒させる事ができるのか、全く確実性はない。

 

 薬師峰が目覚めなければ、一行は一切の術式を封じられなぶり殺しにあうだろう。


 ――全くの博打だ。仮にも警察のやることじゃない。


 ――いや、疑うな、ただやるだけだ。そして念ずるだけだ。


 目標は前方の白い建物、ビジターセンターの最上階。


 風はわずか。深夜だが低山のため気温もまだぬるく、水分がじっとりとまとわりつく。


 敵は近くにいるが、まだ忠平の存在に気づいていない。


 やるなら今だ。


 忠平は疑念を振り払い、意を決して斜面から身体を月下に晒す。


 短い助走の後、槍を渾身の力を込めて振り抜く。


 ――届け、届け!

 

 思念とともに、槍は暗夜に高い放物線を描いた。

 

 

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