第二十八話 逆撃 その二

 「全員退避!退避!」


 榊原の声に、部屋で監視をしていた残りのSP、奥平は動揺した。


 一騎当千とは言い過ぎだが、射撃、格闘術に長けた他の班員が全滅して動揺を隠せないはずはない。


 薬師峰、佐上両名の封印はとっくに解除されていた。それはSPからの自発的なものではなく、SPが行動不能になったか、死亡したことを示していた。


「どうやら異常事態のようです。ここは協力して事に当たらなければ」


「しかし……それは」


 SPは困惑を隠さなかったが、上司の命令もなく、臨機応変な対応ができる権限を持っていない。


「先程の発砲のあとの音、あなたの上司は運が良くて気絶、運が悪ければ、もう……」


 忠平は聴覚からの情報を冷静に分析していた。


「おそらく、敵の目的は『私』です。できれば今十鹿神社にいる皆さんと合流するのが最上の策ですが、まずは皆さんをここから退避させましょう、忠平さん」


「了解、ええとSPさん、僕が襲撃者の相手をしますんで」


「奥平だ。榊原と共に残りの班員を誘導する」


「奥平さん、頼みます」


 奥平は拳銃を抜いて周囲を警戒しつつ部屋から出ていった。


「薬師峰さん、あなたも脱出してくれ」


「そうするわけにはいきません。襲撃者は一人ではありません」


「もう一人、奴以外にもいるのか?」


 その存在は忠平には感知できていない。


「ええ、ようやく私にも認識できました、あれが何なのか」


「そいつが儀門の背後で全て操っていたっていうのか?」


「操っていたというより、儀門の思うことを助ける存在、と言った方がいいでしょうね」


「よく分からないが……とにかく俺が時間稼ぎをするから、そのうちに薬師峰も脱出してくれ」


 薬師峰は何を思ったか、急に忠平の行く手に回り込み、正面から己の従者と向き合った。


 白磁を想起させるほどつややかな肌、果実のようにふっくらとした口唇。


 そして何より大きく深い藍色の瞳が魔的な引力を帯びている。


 忠平は少し戸惑った。思えばこうしてしっかり視線を合わせることはあまりなかった。


 薬師峰はくすりと微笑んで、すっと、忠平の懐に入った。


 髪にまとう茉莉花まつりかのような花の香りの後、ちくりとした軽い痛みを首元に感じた。


 小さく赤噛み跡が残る。それは口づけというより噛む、という動作に近かった。


「おまじないです。どうかご無事で」


「はぁ!なんだよ急に!」


 大袈裟に驚くことで忠平は己の鼓動の高鳴りを隠そうとした。


 きっと薬師峰にはお見通しだろう。


「じゃあ、後で聞かせてくれよ、黒幕の正体ってヤツを」


「ええ、必ず」


 忠平は表情を白い狐の面で隠して部屋を出た。


 立ち去る従者を見送った後、薬師峰は一変して険しい表情で、その場に佇んでいる。


「もう来ているんでしょう?」


 扉の向こうにいる『それ』に視線を突き刺す。


 『それ』は沈黙を貫く。


 ゆっくりと、自然に障子戸が動いた。いずれかが開けたのではない。


 それが自動扉だったかのようにゆっくりと左右に動いたのだ。


 姿よりも先に香りが届いた。濃厚な糖蜜と脂粉の混ざったような、人の精神を惑わせる甘美な香りが。


 次に床のきしむ音、そしてどこからかこの奥まった部屋の中に光が差した。聖者の降臨を彷彿とさせた。


 そして、その者の姿は顕れた。


 その者は部屋の中はさほど気温は高くないが奇妙な白いローブをまとっており、ゆっくりとローブを下ろした。

 

「はじめまして、薬師峰瑠璃。いえ吒枳尼天」


 二十代後半から三十代ぐらいの匂い立つような色香の漂う女性である。二人の間に面識があれば薬師峰はその女性を『塩塚愛美』と認識しただろう。


「そして私の影」


 女は妖華のような口唇を吊り上げた。


 ◇


では分かりませんでしたか?ではこちらは?」


 女が軽い嘲りを含んだように言うと、己の顔に手をかざした。そして一瞬でその顔は男のもの、よく見知った東風新聞の記者、柴に変わった。


 「ふふふ、ではこちらは?」

 

 声色も男のものであった。再び手をかざすと今度は凪川稲荷の住職、尾山に変わる。


 そしてまた手をかざすと、今度は眉目秀麗な妖しい銀髪の青年男性の顔に変わった。

 ごきん、と鈍い音が鳴る。体格もその性別に合わせて変化させているのだ。

 

 男の顔立ちは造形物のように整っていながら、整形めいた不自然な所がない。瞳には凄艶さを兼ね備えていた。同性でも見つめられたら卒倒するほどである。

 

「変性能力……」


 眉毛を寄せたまま、薬師峰はつぶやいた。


「そう、貴方もよくご存知でしょう。心配しないで、先程の記者も、住職も本人は無事です」


「そうやって人に化けて、私達の動きを追跡していたんですね」


「ご明察。彼ら、警操室とやらがあなたを封じてくれて、助かりました。お陰で今までおぼろげだった影形がくっきりとした」


「ここに私達が封印される事もあなた方の計画の一環だったのでしょう?」


「んん、流石――」


 男は満足そうに頷いた。優秀な生徒の答案に対する人気の男性教師の仕草だ。


「一体誰の望みなのですか?多くの人々を殺傷し、世を混乱させるのは何ために?」


「それは私の望みではなく、ある男の望みだ。それが、多くの人々の為になる。私自身の望みはただ一つ――」


「私とともにあれ――。陰陽が一如となることで吒枳尼天としての真の力をこの世に顕現させよう」


 もう一人、いや一柱というべきか。男の吒枳尼天は両手を広げた。薬師峰を迎え入れるという意図であろう。傲岸さが透けてみえるが、この完璧な姿の男に迫られたら断る女などいない。


 ――だが。今対する女は尋常の存在ではない。


「お断りする、と言ったら?」


「無理強いはしないつもりだが、多少力づくでも来てもらう」


「では話はここまでです」

 

 か、っと切れ長の目がより大きく見開かれる。身体の自由を奪う瞳術を男に放つ。普通の相手なら意識を失うか、四肢が動かなくなる術だ。


「無駄だ、分かっているだろう。ここが我が『聖域』の統治下にあることを」


 呪詛返し。それ以前にこの空間において一切の呪法はこのもう一人の吒枳尼天の許諾なくして発現できない。


 逆に膝をついたのは薬師峰であった。眼が血走り、汗がにじむ。瞳術の反射を受けてすでに行動と精神に制限をかけられているのだ。


 余裕の笑みを浮かべながら、男が近づく。


 近づくな!と叫ぶ代わりに、黒色の影が鋭い刃となって男をねらう。

 

 硝子細工が砕けるような軽い音。


 眉ひとつ、身じろぎもせず埃を払うような軽い動作で、黒い刃は砕けて消滅した。


 当然、これも時間稼ぎにしかならない。それを知った上で薬師峰は無駄と承知で攻撃を続ける。


 何のために?人々がこの建物から退避するため、そして外で死闘を続けているであろう己の眷属のためだ。


「時間稼ぎ、ということが分かっているのだろう?あの男のためかもしれないが、全ては徒労だ」


 男の眼がより大きくなる。

 

 より強力な瞳術。


 無意識に体がのけぞり白い首筋が弧を描いた。


 薬師峰の精神が白らむ。己の精神が白い光のもやに侵され、思考できなくなっている。それが知覚できるがゆえに、彼女の精神にいつもは生じえない恐怖の芽がふく。


 ――あともう少し、あともう少しだけ。


「無駄だ」


 非情な一言が心を突き刺す。


 彼女と同質の魔的な瞳。甘い蜜の香りが全身を包む。


 男の顔が触れるぐらいに近づいていた。かすれる視界一杯に――。


 薬師峰の意識は異界へ迷い込んだ。

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