第二十話 月下の戦い その一
一時間ほど前。
強化された聴覚は数十キロ離れた鬼の遠吠えを感知していた。忠平が飛び起きて土手っ腹に穴が空いた木造アパートの階段を下ると、絶好のタイミングで重低音が出迎えた。
「乗って!」
薬師峰は何処からそんなものを引っ張り出したのか、排気量一八〇〇CCの大型バイクに跨り現れた。どこぞやの高校の制服にヘルメットのみ装着という安全基準とはかけ離れた出で立ちだ。
主人自ら従者をピックアップすると、フルスロットルで市街を抜け、うねる山道を爆走する。官憲の検問など一毫も気に留めない行動である。
「薬師峰さん!この前の『聖域』とやらで一気に片付けられないのかよ!」
忠平が風音に抗って大声で問う。
「あれは
彼女が言うには『聖域』とは、路上の石仏、神社仏閣、山岳信仰の対象等をつなぎ合わせ、そこに強大な霊力を流し込み発現するもの、らしい。それゆえに一朝一夕に作られた結界よりも優位であり優先されるのだ、と。
だがそれゆえにその域外となれば効力は無い、らしい。
今回相手をする者たちを倒すのは、感知した妖力からして容易い部類だ。しかしこの事態を引き起こした者の情報を手に入れるには、無力化し、拘束する必要がある。
まずは被害が拡大しないように妖力の元をできる限り防ぐ。その間に薬師峰が出来合いの結界を形成し、異形達の呪詛祓いをする、という作戦になった。
――無茶を言う神様だ。
心の中で不満をこぼしつつも、忠平はいつも通りの命令を恭しく拝して、耳をそばだてる。
ジー……という虫の鳴き声、蛙の声の奥に、絶叫。人間なら聞き取れないその僅かな空気の振動を感知した。
ほとんど視界などない真っ暗な林の中を疾走して、一軒の民家にたどり着いた。
これがつい先程までの、忠平らの行動であった。
◇
――やられた。完全に後手に回ってる。
住宅と田園、山林がまだらに入り交じる中を忠平はひた走りながら舌打ちした。
敵があらかじめ、忠平らの行動を察知してのものなのか、偶然なのか分からないが相手の
――今はとにかく鬼を止めなくては。
手にはかつて人間であったモノを刺殺した嫌な感覚が残っている。どうしようもないとはいえ、罪悪感が返り血とともにこびりついて離れない。
サイレンの音が鳴っている。通報がそこかしこからされているようだ。警察署も大通りに面しているため通りに近い場所は時間稼ぎができるだろう。しかし普通の人間の力と九ミリの弾丸で止められる敵か。発砲許可が出ているかもあやしい。
忠平達を監視していた『特別機捜室』とやらはこの異変に気づいているはずだ。しかし即応できる実働部隊がこの地にいないことは、現状を見れば明白だった。
つまりここで鬼たちを止められるのはたった二人だけなのだ。
忠平は次の叫び声を感知した場所に向かう。
庭の動体感知式のライトが作動して、LEDの青白い光が不気味な筋骨の像を露わにする。
鬼が振り返った瞬間、刈込鋏の片身が胸部を貫通した。反撃の隙は与えられない。間髪入れず、至近距離に詰めて逆袈裟に鬼の首を跳ね飛ばす。首は宙を舞い、見事に鬼瓦の上に載った。
軒先には老夫婦がぐったりと横たわっている。幸いにも気を失っているだけだった。
忠平は休むことなく次の目標に向かう。
コンビニの店内は滅茶苦茶に荒らされ、バックヤードでは首元から血を流す中年の店長が立てこもっている。
鬼は二匹。一匹は人間だった頃の記憶が残っているのか、酒の缶やビンを手当たり次第呑み干しては放り投げ、一匹はバリゲードの築かれた扉を蹴り続けていた。
突然、コンビニの照明が落ちて視界が暗転する。
「ゴ?」
鬼どもの声に疑問符が付くがそれが解決することは永遠になかった。
真っ暗な中、音と嗅覚をたよりに背後に忍び寄り、もとの鋏の形に戻った鋼の刃は、鬼の頸部を寸断した。
もう一匹は、相方の首が落ちる音で異変に気付いたが、それは遅さの証明だった。
音もなく忍び寄った忠平の突きは咽頭部から後頭部までを貫通し、鬼の生命を一瞬で奪った。
この間十分足らず。
幾度も死闘をくぐり抜けた忠平は異形ですらものともせず制圧していく。
忠平は次の目標ではない、奇妙な音を感知した。それは今までの助けを求める声ではなかった。
乾いた破裂音。
その奥に荒い息。
猛獣の威嚇するような低い声。
呼吸音、足音、今までの小鬼ではない、明らかに巨大な質量。
コンビニの屋根に上がり姿勢を低くする。
「あれか……」
隆起した筋肉の、岩石をコンクリートで固めたような厳めしさが遠目からも確認できた。
「じっくり戦術をこねくる時間はなさそうだな」
そう呟くと、忠平は跳んで闇の中にまぎれた。
◇
真城市警察署は創設以来の緊急事態に忙殺されている。
市内、中心地付近に化物が現れた、家に侵入してきた。そんな通報が相次いでおりその対応に追われているのだ。
市内の交番勤務に配属された新人の内藤と先輩の夏目は近所の牛丼チェーン店からの110番を受けた時、酔っぱらいが暴れて暴行、傷害に及んだものかと思っていた。
現場に到着した時、二人はその目を疑った。
化物。鬼、が人を喰っている。直感的に内藤はそう思った。
角はないが爬虫類めいた肌が露出していて、血と脂にまみれた身体はギトギトと光っている。
チェーン店の正面扉、ガラス戸越しでも猟奇的な光景に胃酸が込み上げる。
無惨な光景に二人は茫然とするが、夏目は気を取り直して無線で応援を呼ぶ。
「真城3現着、マル被は……化け物、でいいのか?マル害は男性一名確認、これより」
署からの返答の前に衝撃が通信を中断させた。
フロントガラスに血まみれの体がぶつかってきたのだ。
マル害、被害者の体だ。
「うわ!」
思わず内藤は声を上げた。
パトカーがサイレンを鳴らしてきたので、鬼が気づいていたのは当然であった。問題はそれが逃げる、という選択肢を持っておらず、凶暴で人間以上の怪力だということだ。
再び、パトカーにより強い衝撃が伝わった。
先程まで店内にいた鬼が跳躍し、ボンネットに着地したのだ。
「夏目さん……どうすれば」
「落ち着け……中にまだマル害がいるはずだ」
内藤は腰の回転拳銃に手を置く。特殊警棒では役に立ちそうもない。
化物の黄色い目玉がギロリと社内の二人の方を向く。瞬間、フロントガラスに亀裂が走った。化物の一撃でガラスにヒビが入ったのだ。攻撃はまだ続く。
困惑と焦りが二人の思考を支配しかけていた。
「真城三より、PSへ。マル被から攻撃を受けている。至急応援を乞う」
夏目が無線をかけてから腰のホルスターに手を置く。特殊警棒では役に立ちそうもない。
化物の黄色い目玉がギロリと社内の二人の方を向く。瞬間、フロントガラスに亀裂が走った。化物の一撃でヒビが入ったのだ。攻撃はまだ続く。フロントガラスが破られるのも時間の問題だ。
では外に出てから格闘するか?相手は人間をいとも簡単に殺せる怪力の持ち主だ。外に出る前になんとかした方がいい。
当然ながら化物の対処方法など警察学校でも教えられないしマニュアルにも書いていない。本来は署に応援を求めるべきだが警察官本人の生命が危険にさらされている。
「俺が責任を取る」
夏目は覚悟を固めた。ゆっくりと腰の拳銃を取り、引き金に指をかける。
乾いた音が車内に響いた。
フロントガラスを貫通し、元人間だった存在の前頭部に九ミリの弾丸が炸裂した。
あっけなく、化物はボンネットの上で動かなくなった。
「大丈夫、だよな」
「ゆっくり出て、マル害を救出しろ」
夏目は鬼の死体と周囲を警戒しつつ、本署に無線を取り続けている。
内藤は慎重に店内に入ると、調理場の入口に資材が固めてあり、奥に二名、店員が籠城していた。一人は首から胸にかけて血に染め顔面蒼白だが、生命に別状はないようだ。
「警察です!」
「あぁ、良かった!」
内藤の姿を見て店員達は安堵の表情を浮かべる。
「被害者は重症ですが意識あります!」
夏目はその報告を無視した。いや、無視したのではなく、もう一つの脅威から目が話せなかったのだ。
二人の視線の五十メートル程先には、三メートルはある巨岩のような大鬼が憤怒の相を浮かべ彼らを睨んでいた。
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