第四章 うごめくものたち
第十五話 調査
午後からの雨は降り止むことなく、そのまま真夜中まで大気にも地面にも水分を過剰供給し続けていた。
田園に囲まれた小高い丘陵の上に大きな日本家屋が建っている。築五十年以上経った邸宅は、先祖伝来の土地で代々改築され続けたものであった。
雨音に微かな声が混じる。
それは邸宅の庭の中から発せられていた。
一つは全く動かず、もう一つはかすかに、そのさまは死に際の昆虫のようだった。
「賢介ェ…けんすけぇ…生きているか…」
雷鳴が響き、凄惨な光景が白く浮かび上がる。
泥の中でもがき続けるのは初老の、がっちりとした体格の男であった。もう片方の微動だにしない影は中年の恰幅の良い男で、頭部から血を流している。
老人の声が低く低く絞り出される。逆流する雨水溝の濁水は、瀕死の老人から溢れる憎悪と怒りそのものであった。
「…おまえ…許さねぇぞ…よくも」
雨水と泥と血――。
刹那的な光と空気の振動が続く。
老人のおぼろげな視界に確かにそれは焼き付いた。闇の中に
◇
外は小雨が続いている。梅雨入りは少し遅れたが、じっとりとした大気に辟易した人々にとって、よくエアコンの効いた喫茶店内は別天地であった。
「この災害の裏にそんなことがあったとはねぇ」
少し演技めいた動作で柴叡也は自社の新聞の1面を広げ、大袈裟に驚いてみせた。
そこには『土砂崩れ、山林火災と同時』と大きく見出しが書かれた記事が載っている。それは当然ながらこの間繰り広げられた戦いの、現実社会での報道のされようだ。
柴は霊力も超能力もなかったが、怪談奇談、オカルトの類には誓約者なみの嗅覚を発揮した。今日出会って開口一番にあの日のことを紙面を見せながら詰問してきたのだ。
忠平はびっしりと汗をかいた向かいの銀色のカップの上でドロドロになった生クリームに同情しつつ、ある程度真面目に、ある程度はごまかしてこの尋問に耐えた。薬師峰からは柴に会う時、この前のことを話しても構わない、と言われている。多少の報酬として情報交換するのは当然ではあるが、今日要件があるのは忠平のほうなのだ。
質問の波に間隙が生じた。この熱心な記者は先程の適当な受け答えでも根掘り葉掘り質問を浴びせたことで、なんとなくこの一件のディティールを掴めたようだ。
「柴さん今日はそのことはこれくらいにして、本題に入りたいんですが」
一通り満足した様子なのを確認してようやく切り出した。
「えぇ?仕方ないなぁ、後でまた色々聴かせてくださいよ」
「実はお願いがあったのは他でもなく、あの獣害事件について調べて欲しい事があるんです」
「私なんかでできることがあれば」
「まず獣害事件の被害者、葉山伊保香、彼女の最近の学校外での行動を調べて下さい。あと、アパートから男女飛び降り事故の被害者二名、この二人についてです」
そう言って忠平は一枚、ネット記事をプリントアウトした紙を渡した。それは忠平が遭遇した獣化したDVカップルの転落事故についての記事だ。
「一介の地方新聞の記者なんでどこまで調べられるか分りませんが、いいでしょう、お引き受けします。警察にもある知り合いがいるので多少は情報を引き出せるでしょう」
「記者さんなんで、少なくとも僕みたいな無職よりはマシでしょう」
「でも、佐上さん無職、という割には何故スーツを着てるんですか?」
指摘の通り、仕事もないのによくあるダークグレースーツを着ている。少し迷ったあと、口を開いた。
「この前のことがあってから、気を付けてるんですよ、今他の人が僕らを見たら、商談か、商談の合間に時間調整しているサラリーマンだと思うでしょう?平日の真昼間にスウェット着てブラブラしてたら、凄く目立つんですよ。この小さな街ならなおさらです。まあ夜勤とかの人もいるので一概には言えませんが…今の僕、普通の警察や一般の方に不審に思われる訳にはいかないので」
「なるほどねぇ」
「できれば、仮の肩書、みたいのがあればいいんですけどね」
「うん、佐上さん、やっぱりあなた『狐』ですわ。お嬢が見込んだだけはある。依頼の件、吉報を期待してて下さい」
柴はそう告げて立ち上がると、伝票を引っ掴んで早々と立ち去ろうとしたところで急に立ち止まった。
「あ…狐といえばまた最近、妙な事案が…」
いそいそとスマートフォンを操作して、
「天罰代行集団って知ってます?」
とかざした画面には、狐の面を被った人々が立ち並ぶ姿が映っていた。
『我々は天罰代行集団――
仰々しく格好をつけて狐の面を被った一団はオーソドックスな狐のポーズをする。
『今日の被告人は、路上で付き纏い行為を繰り返す男性です』
中央に位置する銀色の狐面が話し始める。ボイスチェンジャーで加工された、無機質な声である。
画面が切り替わり、一人称視点のカメラが顔にぼかしを入れた男に詰め寄る。
『何で付き纏い、嫌がらせ行為をするんですか?』
『犯罪行為ですよ。被害者泣いてますよ』
無視して通り過ぎようとする男を集団で自宅まで追いかける。
それ以上の進展はないのだが、テロップには警察へ通報し、巡回を強化して欲しい、と要請したとある。
五分もない短い動画で簡潔にまとめられた動画は最後にこう締めくくる。
『吒枳尼天の命を受け、悪には天罰、KORNが代行――』
それなりの再生数を稼いでいた。いわゆる正義系の配信者、ということらしい。
◇◇
「これはこれは、由々しき事態ですねぇ」
スマホから動画を見て、薬師峰は扁平な感想を述べた。
窓からはよく手入れをされた枯山水式の庭園が望める。凪川稲荷の祈祷応対の間に、その張本人と僧服の人物が座している。
「以前も警察の方がみえましたが、当山とは関係ない、と申しました。実際に貴方様のなされることにも協力をしているわけではありませんから」
「それはどうも」
「全く、当山としては甚だ困惑しております。誤った噂が広まっていることについてはマスコミを通じて、またはSNSで度々注意喚起していますが、人の願望というのは際限というものがありませんね、一向に止むことがありません」
黒縁の眼鏡を持ち上げて苦情を漏らすのは尾山義隆、凪川稲荷の住職である。几帳面そうな雰囲気は僧職というより経営者に近い。実際、宗教施設以外の、学校法人や介護施設を経営する企業としての側面があり、それが寺院の財政を支えている。
「あの噂は私が流したものではありませんよ。衆生の願望、事実が織りなしたものです」
「兎に角、あなたがどのような存在であれ、凪川をもとの平穏な場所に戻して頂きたいのです」
「ふふ、ご住職それは本心からの願いでしょうか?」
「魂を売ることはありませんが仏教者として、そう願っております」
「ですから少しでも衆生の心を満意たらしめんとして働いているのですよ、このように」
そう言って薬師峰は住職から什器を引き寄せた。中に入っているのは大量の絵馬である。
書いてある願いは、『あいつを殺してほしい』とか、『恋人を奪った女に報いを受けさせて欲しい』とか、みな負の感情が綴られたものである。つまりあやしい噂である『北別院』にたどり着けない者やそもそも探す気がないもの等が、本院である凪川稲荷に怪しい願いを書き連ねた絵馬を奉納するのであった。
普段寺で働く雲水や職員が見つけ次第別の目立たない場所へ移しているが、時より薬師峰がここを訪れ、最も念の強いものを選び、裁定するのだ。
その作業は先代の住職から伝えられたもので、先々代、もっと前から同じように継承されてきたもので、存在を訝しむ尾山も従わざるを得なかった。
尾山は薬師峰が吒枳尼天の化身だと今でも信じきれていない。しかし時よりこの絵馬に書かれた願い事が叶ったであろう願主から「心願成就相成りました」と感謝の意とともに大口のお布施を献じるという場面を目の当たりにすると、やはりこの少女が神の化身なのではと思えてしまうのだ。
「ただの願いではいけません。自らの命を賭しても叶えたい、そういった念は言葉に、文字にすれば呪となります。」
薬師峰は一つずつ、絵馬を取り出しては机の上に重ねていく。
絵馬を選ぶ手が止まった。
「運命というのですかね?先程の動画との発言と重なるのは」
『息子の命を奪ったキツネに報いを!』
そこには何度も何度も重ね書きした文字が書かれていた。怨讐の念を強く刻み込むために。
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