第23話獄上の食卓
俺が泣いている? 馬鹿も休み休み言え。
この俺こそは【焦熱の魔王】ベルフェゴール・リンドヴルム。
世界を恐怖のどん底に陥れている恐怖の大王、暴虐なる支配者だ。
地上に恐れる者もいなければ、俺に力ずくで逆らえる者もいない。
その俺が泣くことがあるとするなら、涙を流す事がもし有り得るとするならば。
それはきっと――この地上から人間を駆逐した時。
そう決めた、そう決めて今まで生きてきた。
そんな俺が――何故に涙など流す事が有り得るのだ。
だが、思わず自分の頬に手をやると、確かにその雫は己の目から出ているようだった。
どうして、何故。
人間にこんな姿を見られた羞恥や、配下に魔王としてあるまじき姿を見せてしまったことへの狼狽、それ以上に己の突然の変化に動揺していたベルフェゴールは、やがてあることを悟った。
「そうか……俺は知らなかったのではない。思い出したのだ」
湿った声で絞り出して、ベルフェゴールは俯いた。
「そうだ……かつては俺にも母がいた。母はまだ魔素を上手く操れない俺のために、毎日毎日、食材を買い、時間をかけて料理を作り、俺に食べさせてくれていた……」
もうそれは数百年以上前のことだけれど。
そう、自分にも父や母と呼べる存在がいて、まだ自分の世界は平和だったのだ。
「そうだ、そうだった、母の作ってくれた料理はいつも優しい味がした。あの時間は無駄な時間などでは決してなかった……! なのに俺は……俺はすっかり忘れていた。母が俺に注いでくれた愛情、手間暇、そして何よりも、母の優しさを……」
そう考えると、何だか急に、自分が途轍もなく愚かな存在に思えてきた。
「……やはり、俺は忘れてしまっているのだな。何もかも、かつて己の中にあったはずの平和すらも」
フッ、とベルフェゴールは流れ出た涙を拭うこともなく、泣き笑いに自嘲の笑みを浮かべた。
こんな男が、ちゃんとした慈愛や優しさを知らぬ男の、何が魔王なのだ。
こんな俺のどこが王たるべき存在であるのだ?
「まだ幼い頃は、あんなに豊かで穏やかな時間だったのに……俺はそんな大切な思い出も、大切な感情さえも忘れてしまえるのか……」
こんな冷酷な痴れ者には、やはり魔族のための平和な世界など築けるはずが……。
と、そのとき。
ふと、肩に温かいものが触れ、ベルフェゴールは顔を上げた。
聖女・恋し浜のえるが、なんだか自分まで泣きそうな表情でベルフェゴールに寄り添い、その背中をゆっくりと撫で擦っていた。
「ベルベル、あんまり自分を責めちゃダメだって」
その声の優しさにはっとすると、のえるが泣き出す寸前のような表情のまま、それでも笑顔を浮かべた。
「思い出した、思い出せたんだからいいじゃん。ウチなんか何回勉強しても大事な公式とかも忘れちゃうしさ。よくあることだよ」
ああ、この言葉、この優しさ、落ち込んだ時に肩を擦ってくれる人の手の温かさ。
またひとつ、その心地よさを思い出したベルフェゴールに、のえるは尚も語りかける。
「それにさ、唐揚げひとつ食べただけでこんな感動してくれるベルベルが冷たい人なわけない。ベルベルは優しい、マジ有り得んぐらい、凄く優しい人だよ。ねぇみんな、そうだよね!?」
のえるが下級魔族たちを振り返ると、そこに居並んだ下級魔族たちも目の縁いっぱいに涙を浮かべ、その通りだと頷いた。
「魔王陛下はお優しい方です! それは俺たちが一番よく知ってます!」
「陛下は俺たち下級の魔族だって魔王軍に入れてくれて、大事な配下として扱ってくれたじゃないですか!」
「俺が人間たちとの戦いで負傷した時、俺の目を見て大儀であるって言ってくれたの、生涯忘れない光栄でした!」
「人間たちに家を焼かれ、行くところの無くなった私たちに生きる道をくれたのは陛下、いや、魔王様ですよ!」
「魔王様は優しい! 地上で一番優しい魔族です! だから落ち込まないでくだせぇよ!」
そうだそうだ、と拳を握り、躍起になって自分を励まそうとしてくれる魔族たちに、今度は別の意味で涙が溢れそうになった。
俺という男は本当に部下に恵まれた、今までこんなにも獄上な優しさに囲まれて生きていたのだ――その思いに更に胸が熱くなり、ベルフェゴールは指で強く涙を拭った。
「……皆の者、今しがたは見苦しいところを見せてすまなかった。だが、そなたたちの献身と優しさ、俺も骨の髄までよく理解しているぞ。今までよくついてきてくれた。そして、これからも変わらず、俺の大切な臣下であってくれることを祈る」
魔王としての威厳を取り戻した、否、以前よりも更に威厳を増したベルフェゴールの言葉に、下級魔族たちが頷いた。
「さぁ、湿っぽい話はもうよそう。ここにいる聖女のえるが、俺たちのためにこんなにも美味し糧を作ってくれた。彼女が作ってくれた優しさの味、これから皆で大いに楽しもうではないか。今日ばかりは遠慮はいらぬ、皆で食べよう!」
その一言に、待ってましたとばかりに下級魔族たちが色めき立ち、のえるが手に持った皿に殺到した。
うぇうぇ!? とのえるが慌てる一瞬の間に茶色い塊は全て無くなり、その代わりに魔族たちの間から次々と感動の声が上がる。
「う、美味ぇぇぇぇぇ!! なんだこれ!? 俺、こんな美味いもん食ったことねぇぞ!!」
「これ、本当に怪鳥ケツァルの肉か!? ただ焼くとあんな脂気がなくて筋張ってる不味い肉なのによ!」
「お、おお、ショウガってこういうふうに使うと臭み消しに使えるんだな! 生で齧る以外の食べ方なんて初めて知った!」
「おい、このレモンかけるとまた違った味になるぞ! サッパリと食える! お前のにもかけてやるよ!」
「お、おい勝手にレモンかけるな! 俺は酸っぱいヤツとか苦手なんだよ!」
「遠慮すんな、ヒタヒタになるぐらいかけてやるからよ!」
平和だなぁ――その様を見ていて、ベルフェゴールの胸に湧いてきたのは、そんな思いだった。
いつかすべての魔族たちが、今のこの下級魔族たちと同じような顔になる日が来るなら――それはどんなにか素晴らしいことなのだろう。
そんな思いが温かに胸を満たし、気がつけば、自分の口から低い声とともに笑い声が漏れていた。
その瞬間、のえるがぎょっとしたように自分を振り返り、ベルフェゴールは目を丸くした。
「あ、ベルベル!」
「ん?」
「今、ベルベル笑ったでしょ!? 少しだけど、フフッって!」
「え――?」
「よかったぁ、やっと笑った! ベルベルっていっつも仏頂面だし、笑うのが嫌いなのかと思ってたし! でもちゃんと笑えるんじゃん! 実はずっと気にしてたんだからね!」
「お、俺が笑わないのを気に――? 何故だ?」
「そりゃ当たり前っしょ! 人間でも魔族でも、ブスッとしてるよりは笑ってた方が平和じゃん!」
そう言って、のえるは弾けるような笑みを浮かべた。
「人間、笑顔しか勝たん! それがウチの人生哲学だかんね! どんなに辛くてもしんどくても、笑って美味いご飯食べてりゃ治る! ベルベルも覚えとけって!」
人間、笑顔しか勝たん――なんだか、ベルフェゴールの心に妙に響いた、その言葉。
だが、今のえるが浮かべている屈託のない笑みを見れば、それは真実の言葉なのだと思わされる、嘘も偽りもない言葉。
欺瞞と虚実に塗れたこの世界の中で、たったひとつだけ確かだと思えるもの。
その言葉に一層胸が温かくなり、ベルフェゴールは何度も何度も頷いて、のえるの顔を正面から見つめた。
「お前は優しいな、のえる」
「へっ?」
「優しい、お前という女は、本当に優しい人だ。お前のおかげで俺も少し思い出すことが出来た。この世界が忘れていた、だがかつてはあった、優しさというものを――」
意図せず、頬が緩んだようだった。
何だか、物凄く久しぶりに浮かべたような気がする微笑みに、なんだかのえるが慌てたようだった。
「う――な、なんだよ急に改まって。急にそんな顔しないでよ。ハズくなんじゃん――」
白い肌を桜色に染めて、のえるは頭に被った頭巾を両手でずらし、口元を覆って俯いてしまう。
子供のようなその所作に、思わずますます笑みを深くしてしまうと、のえるは更に縮こまってしまった。
◆◆◆
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