第2話獄上の伝説

 しばらくベルフェゴールがその聖女の顔を見つめていると。


 聖女が、なんだかイラついたようにベルフェゴールを睨んだ。




「あのさ」

「な……何だ?」

「ただ突っ立ってちゃわかんねーんだけど。誰? アンタ誰?」

「は……」

「は、じゃないんだけど」




 聖女は不機嫌さを丸出しで半目になる。




「頭にツノ生やしてる場合か。まず初対面の人に出会ったなら自分から挨拶ってお母さんから教わったでしょ。ほら、挨拶!」

「あ、ご、ごめんなさい……!」




 叱られて、思わずベルフェゴールは敬語になってしまった。


 軽く頭を下げつつ、しどろもどろとベルフェゴールは自己紹介をした。




「お、俺はベルフェゴール・リンドヴルムと申す者。一応これでも魔族の王、魔王をやらせてもらっている男だ。今回は不躾ぶしつけな時間に不躾な訪問になってしまって誠に申し訳ない……」

「魔王!?」




 途端に、聖女が素っ頓狂な声を発した。


 うぇ? とベルフェゴールが顔をあげると、聖女が驚愕の視線で見つめてきた。




「ま、魔王って、あの【焦熱の魔王】!?」

「え? あ、うん……」

「魔族の王様!?」

「う、うん……」

「人類の敵だっていう!?」

「そ、そうだな……」

「しもべになれば世界の半分をくれるっていう!?」

「い、いや、それは言ってない……!」




 世界の半分って……どこの太っ腹な魔王の言葉なのだ、それ。


 爵位とか領地は与えることがあっても、流石に世界の半分とまで望まれると、ちょっと……。




 ベルフェゴールが首を傾げた、その瞬間だった。


 凍りついていたように固まっていた聖女がやおら椅子を立ち上がり、こちらにツカツカと歩み寄ってきた。


 ん? 何をする気だ……と身構えた途端、ぐい、と頭に生えた二本のツノを無遠慮に掴まれ、ベルフェゴールは慌てた。




「んな――!?」

「うおーすげぇ! マジで頭にツノ生えてる! 噂通りじゃん! 会ったらいっぺん触らしてもらおうと思ってたけどこりゃすげぇ! マ!?」

「んな、や、やめろ――! 貴様は何をやってる!? こ、こら、ツノから手を離せ!!」




 なんなんだコイツは!? 


 初対面の人間に思い切りツノを掴まれたのも慌てたが、それ以上に慌てたことがある。


 ツノを掴まれて強制的に下を向かされた手前――聖女の豊満な胸がベルフェゴールのすぐ鼻先に迫り、そこからなんとも言えない女性特有の甘い芳香ほうこうが漂ってくる。


 ゆさゆさと、魔王の御前どころか眼前で遠慮なく揺れる無礼な乳に、ベルフェゴールの血圧が一気に急上昇を始めた。




「おおー、マジでツノだ……! しっかり頭蓋骨から生えてる……! ゴメン、もうちょっと触ってみてもいい?」

「や、やめろ! 初対面の魔王に向かってどういう無礼を働くのだ!? と、とにかく手を離せ! これ以上はヤバいんだ!」

「ヤバいって何が!?」

「おっ、俺の状況を見ろ! めっ、めり込む……!」




 頑張って遠回しに伝えたところで――はっ、と聖女が何かを察して、ようやくツノから手を離した。


 同時に、両手で自分の胸の辺りを多い、ズザザザッと後ずさった聖女が、少し赤面した顔でムッとした。




「……スケベ大魔王」

「きっ、貴様が悪いのであろうが! この魔王のツノを汚い手で一方的にいじくり倒しよって! こんな獄上な無礼、流石に俺も人生で初めてだぞ!」

「無礼って何よ? さっきこの聖堂ブチ壊しながら登場した人間の台詞かっつーの。そっちのほうがよっぽど無礼じゃね?」




 聖堂、と聞いて、流石にベルフェゴールも本題を思い出した。


 ゴホン、と咳払いをして、ベルフェゴールは居住まいを正した。




「そ、そうだった、本題を忘れかけていた……。とにかく、異世界より召喚されし聖女よ。今宵はこの【焦熱の魔王】ベルフェゴール・リンドヴルムが、この手ずから貴様をさらいに来たのだ。大人しく魔族領へ連行されてもらうぞ。抵抗すれば容赦は――」

「ちょい待ち。その聖女っていうのやめて。なんか疲れるんだよね、その呼び方」

「だっ、だから――そう何回もこの魔王の話を遮るな! 喋りたいことがあるならこっちが喋り終わってから――!」

「ウチ、恋し浜のえる。聖女かどうかはわかんない」




 のえる? ベルフェゴールが鸚鵡おうむ返しに問うと、さっ、と、聖女が右手を上げた。


 え? と思わず掌と聖女の顔に視線を往復させると、聖女が眉間に皺を寄せた。




「何? その表情?」

「え――? こ、この手は何だ……?」

「握手じゃん。この世界って握手ないの?」

「い、いや、そういうこっちゃない! 握手ぐらいナンボでもあるわ!!」




 何故か物凄く馬鹿にされたような気がして、ベルフェゴールは地団駄を踏んだ。




「だからそういうことではなくてだな、なんで聖女ともあろうものが魔王と握手せにゃならんのだ、と言いたいんだ! 獄上におかしいではないか!」

「なんで?」

「なんでって――そういうもんであろうが! よいか、人間にとって魔族というのは穢れておるとされておるのだ! その魔族の頭領、魔王ともあろう者なればモストストロンゲストに穢れておることになる! その手に聖女ともあろうものが触れるどころか握手などというのは……!」

「やめた方いんじゃね? そういうの」




 冷たい声が聖女の口から発され、ベルフェゴールは今度こそ本気で絶句した。


 聖女は何故なのかムッとした表情でベルフェゴールを見る。




「穢れてるだのこうだの、自分の口から言うこっちゃないでしょ。魔王なのに卑屈すぎだし。自己肯定感皆無かよ」




 その言葉の冷たさに、ベルフェゴールは本気で怯えた。


 それと同時に、混乱した。


 この聖女、何を言っておるのだ?


 魔族なんて人間から見れば獄上に穢れておる存在ではないか。


 それなのに――この聖女はそんなことを言うものではないと、こちらを窘めているのだ。


 この聖女、本気なのか?




「な、何を言っておる、何を言っておるのだ、貴様は……? あのな、俺は魔王だぞ? 魔王、なのだぞ?」

「だから何よ? 穢れてるとか綺麗だとか、そんなもん誰かに勝手に決められてたまるかよ。まして自分からそんなこと言うなんて最低にカッコ悪いじゃん」

「だ、だがな……!」




 その瞬間、素早く動いた聖女の両手が、そっとベルフェゴールの右手を取った。


 その突然の挙動以上に、聖女の手の冷たさに驚いていると、聖女がベルフェゴールの掌をしげしげと見つめる。




「なんだ、やっぱめちゃくちゃ綺麗な手じゃん。どこが穢れてるん?」




 心底不思議そうなその声、そして人間の女に初めて触れられた動揺で、思わずベルフェゴールは言葉を失った。


 あ、あう……などと魔王らしからぬ声で慌てているベルフェゴールの目の前で、聖女が意外なほどの握力で右手を両手で握り、握手してきた。




「じゃあ、あらためて――ウチ、恋し浜のえる。よろ〜」




 その声と表情の必死さに、ベルフェゴールは今度こそ完全に調子を狂わされた。


 「あ、あぁ、よろー……」と曖昧に頷いてしまうと、にっ、と聖女――恋し浜のえるが微笑んだ。


 その笑顔のあまりの屈託の無さに思わずドキリとしてしまうと、うーん、と一転してのえるが難しい顔になった。




「こ、今度はなんだ……?」

「でも、ベルフェゴールって呼びづらいなぁ。一回呼ぶごとに老けるくね?」

「なッ――!? ひ、人の名前をそんなふうに言うな! 老けるってなんだ!?」

「うーん、なんかいい呼び方ないかなぁ。ベルフェゴール・リンドヴルム、ベル、ベルりん、これだと首都みたいだなぁ……」

「首都……!? 人の名前を首都とか言うな! こんな無礼重ね重ね初めて……!」

「あ、よーし決めた! ベルベル! ベルベルって呼ぶから!」

「べ、ベルベル……!?」




 キャッキャ、とのえるは何故なのか喜んだようだった。


 ベルベル。人間ならばその名を聞くだけで半日は震えが止まらなくなる(当社比)はずのこの俺の名前を、ベルベル――。


 流石にそれはやめろと言おうとしたその時、聖女がにかっ、と笑った。




「可愛いじゃん、ね? べーるべる?」




 その瞬間――【焦熱の魔王】ともあろう存在であるベルフェゴールの体内を、一発の紫電が駆け抜けた。


 人生で一度も感じたことのない衝撃に、何故か顔が熱くなり、たまらずベルフェゴールはうぐっと呻いて顔を背けた。




「え、どしたん?」

「い、いや、なんでもない……ふぐっ」




 しばらく胸の鼓動が落ち着くのを待ってから、ゴホン、と再びベルフェゴールは咳払いをして仕切り直した。




「ま……まぁよい。獄上に気が抜けたが魔王は寛大だ、その呼び方も赦そう。それでだな聖女のえる、これより貴様には魔族領に来てもらうぞ」

「ふぇ?」

「ふぇ? ではない。この状況を見たら普通察しがつかぬか? 俺は貴様を攫いに来たのだ」

「サライに来たってなに? 二十四時間テレビやるの?」

「だっ、だから――! 要するに俺は貴様を誘拐しに来たのだ! お前は今から必死の抵抗も虚しくこの俺に捕まり、強制的に魔族領に拉致されるってこと! わかったかこれで!!」




 ベルフェゴールが大声で説明すると、しばらく西と東の方向をそれぞれ向いていた聖女のえるの瞳が、数秒かけて正面に戻った。




「うぇぇぇぇぇっ!? ゆっ、誘拐!? 拉致――!?」

「おっ、やっとわかってくれたか。よいぞその反応、まさに期待通りに獄上だ」

「ら、拉致ってどうすんの!? ま、まさかウチのこと薬漬けにして輪姦まわしたり――!?」

「そ、そんな酷いことは流石にせん! 魔王とはこれでも結構紳士的なものなのだ、安心してよいぞ!」




 だがこちとら魔王、あまり調子を狂わされるわけにもいかない。


 ここで一発、魔王なるものがどのように暴虐で残虐なものなのかを刷り込んでおかねば。


 ベルフェゴールはなるべく邪悪な笑みを意識して微笑んだ。




「でもまぁ、うん、そうだな――せいぜい、我ら魔族と共生し、すっかりと堕落する程度のことをしてもらう。終いには貴様は聖女としての務めなど忘れ果て、魔界でただただ快楽と放蕩ほうとうにふけるだけの肉の塊となるのだ。――どうだ、獄上に恐ろしいであろう?」




 ベルフェゴールの想定では、そこで聖女は恐れ慄き、真っ青な顔になり、それでもなお気丈に抵抗を見せ、私の身体は支配できても心までは支配できません、などと悲鳴を上げる予定であった。


 だが、案の定というかなんというか、この聖女はパッと顔を輝かせた。




「うぇ、マジ!? 堕落していいん!?」

「え――」

「日付変わるまで夜更かしして、昼頃起きてもいいの!? 運動とかお祈りとか全然しなくて、一日中寝転がってインスタとTikTok観ててもいいん!?」

「え、え……!?」

「ならついてく! ウチ、ここに来てからめっちゃ窮屈で――そもそもこんなところ全ッ然いたくないし!」




 聖女のえるはキャッキャキャッキャと小躍りした。




「もう、この世界の人ってみんなマジメすぎるんだよね……。しかもイミフ。急に呼び出してきたかと思ったら聖女様だのお救いだの言い出してウチの話全然聞かないし。いつ帰れんのって聞いても煙に巻くしさ」




 聖女のえるは聖女らしからぬ口調でブツクサと吐き捨てた。




「それにウチの一挙手一投足に対して聖女様はそんなことしないとか、聖女様ならもっとこうしろああしろってうるさいんだよね。ウチはやる気ないのが売りなのにさ」




 一頻り、この一週間で溜まりに溜まっていたのだろう憤懣ふんまんをぶちまけて、聖女のえるはベルフェゴールを見た。




「と、いうことで。好きなだけ堕落していいならウチ、ベルベルについてく。攫ってもいーよ?」




 小首を傾げながらのその言葉に、ベルフェゴールの方が却って慌てた。


 「お、おい……!」と言いながら聖女の肩を掴み、ベルフェゴールはよくよく言い聞かせた。




「正気なのか――!? お前は!! 聖女が自ら進んで魔王に拉致されようなどとは!!」

「はぁ? だってベルベル、もとからそのつもりで来たんでしょ? 何もおかしくなくね?」

「う――! だ、だがな――! お前は異世界から召喚された聖女だろう!? つまりこの世界に住む全人類の希望なのだ! お前が進んで魔族に拉致されたなどと聞いたら、この世界の人類は――!」

「あーもう、いいよその話! つーかそんなもん、勝手に人を呼び出しておいて聖女だなんだって言って色んなこと押し付ける方が悪くね!?」




 その隙のない正論に、再びベルフェゴールは絶句してしまった。


 聖女のえるは白い頬をぷうっと膨らませ、豊かな胸を誇張するかのように堂々と反らした。




「ウチ、単なるJKだし! 世界を救うだの人類の希望だの、そんなもんウチじゃなくてアベンジャーズとプリキュアの仕事でしょ、違う!? ウチは人類の代表として魔族と戦えなんて言われても絶対戦ってやらん! もう決めとる! ギャルは自分に正直に生きてるからこそのギャルなんだぜ!!」




 その一言、その一言に――ベルフェゴールは今度こそ完全に、言葉を忘れた。


 【焦熱の魔王】ベルフェゴールが百年以上、密かに胸に抱いていた思い。


 異世界から召喚された聖女に縋りつき、この世界の尻拭いをさせている人類への憤り。


 魔王という存在でありながら、そんな堕落しきった世界を変えられない己への憤り。


 その不条理を、その世界の歪みへの怒りを、をこんなにハッキリと、ストレートに口にできる存在がいるとは――知らなかった。





 だが、それ以上に――。


 ベルフェゴールは聖女のえるの肩を抱いた手に力を込めた。




「ギャル――」

「うぇ?」

「お、お前、今、自分のことを、ギャルだと言ったのか――?」

「え? そうだけど……つーかそんなもん、見たまんまじゃね?」




 聖女のえるは小首を傾げた。




「こんなんどっからどう見てもギャルそのまんまじゃん。それ以外のなんだっての? 逆に教えてほしいっつーか……」




 あっけらかんと肯定して見せた聖女のえるの言葉に、ベルフェゴールは震えた。


 それと同時に、ベルフェゴールの脳裏に、幼い日、母に繰り返し聞かされたうたの一節が聞こえてきた。




【その者、ゆるころもを纏いて不毛の野に降り立つべし――】




「ん? あれ? ベルベル、どうしたん?」




【失われし聖と魔の絆を結び――】




「べ、ベルベル、どうしたの? 顔が怖いよ……」




「【遂に我らを、白き清浄の地へ導かん】――」




◆◆◆




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