今ここにある危機

ヤジー

不吉な闘いとの一部始終

本日は客先での打ち合わせである。

「今日だけは絶対に失敗できない。」

と、自分に言い聞かせてきた。

今回の案件は、大手企業と直接繋がれる重要な案件。

フリーランスになって早うん十年。今まで孫請け案件ばかりだったが、これが成功すれば初めてメーカーとの直接取引となる。


そのため、今回のプレゼンは絶対に失敗できない。

昨晩は入念に作成したプレゼン資料の推敲を重ね、結局寝ることができなかった。

歳のせいか徹夜明けは身体に相当堪えるものだが、今日はアドレナリンが放出されているのか疲れも心地よい。

よし。きっとうまくいくはずだ。


外に出ると厳しい陽射しが照りつける。

8月も中旬。午前中なのに気温は35度を超えている。まるで蒸し風呂のようだ。

こんな日にスーツは着たくない。普段、在宅ワークのため楽な格好で暮らす私にとっては拷問に近い。

しかし今日は重要な日。いくらクールビズとはいえ、嫌だろうと何だろうとスーツだ。ネクタイも締めた。


うだるような暑さの中、最寄り駅に辿り着く。暑い。

ホームの片隅で電車を待つ。汗が止めどなくしたたり落ちる。

電車は中々来ない。非常に不快であり息苦しい。

電車はまだか?


そうだ。降りる駅の階段は中央辺りにあることを思い出した。

下車してからスムーズに移動するためにも、ホーム中央辺りに移動しよう。

しかし、ホーム中央には私にとって大きなトラップが潜んでいる。

弱冷房車だ。


私は弱冷房車が嫌いである。

なぜなら、その名の通り冷房が効いていないからだ。

温暖化の影響か酷暑が続く日本。そのような気象状況の中、目の前に弱冷房車が止まったときほどむかつくことはない。

ツンドラ地帯の正装であるネクタイを、亜熱帯の日本で、しかも蒸し風呂のようにクソ暑い真夏の昼下がりにしているのだぞ。

そこに「弱冷房」など、ただの嫌がらせ以外の何者でもない。

大体だ。「ホーム中央にお進みください」などとアナウンスしているくせに、その中央の微妙なところに弱冷房車を持ってくる必要があるのだろうか?

問い詰めたい。JR東日本を問い詰めたい。

そんなに弱冷房車が必要なら、わかりやすく一番前か後ろにしろ!


そんなことを考えていると、ホームに電車が入ってきた。

考え事をしていると時間が速く進むようだ。

辛いときは考え事をするようにしよう。


電車はゆるゆると速度を落とし止まる。

私の前の車両は弱冷房車ではない。ヨシッ!

電車に乗ると、キンキンに冷房が効いている。

これがいいのだよ。これが。

真夏の電車は冷房がキンキンに効いていなければならない。

もしビヤガーデンで温いビールが出てきたらどうする?

それこそ烈火の如く燃えた怒りの炎でビールも沸騰してしまうだろう。そう思わないか?


上機嫌に乗り込んだ私だったが、その上機嫌は一気に打ち砕かれた。

車内は約100%の乗車率。

つまり、座席はうまい具合にすべて埋まり、座り損ねた人々がぽつりぽつりと立っている状態。

今、立っている連中は、始発駅で年寄りに、妊婦に、子連れに、若者に、学生に、子供に席を取られた敗北者たちだ。いかにも運に見放されたような負け組連中ばかりだ。

つまり、私は運に見放されたような連中の仲間入りを果たさねばならぬ。

大事な日だというのに幸先が悪い。


ガタゴトガタゴト。

そんな思いとは裏腹に電車は揺れる。

私も揺れる。一定のリズムで揺れる。

そんなときである。私の体に異変が起きた。


腹が痛い。


いわゆる腹下し。端的に言えば下痢。

これまでの人生を顧みて私の直感がつぶやいた。


「これはヤバイ」


まさにその通りだった。

納期ギリギリで納品物が間に合うか間に合わないかとか、バイクで事故ったとか、嫁が愛想を尽かして出て行ったとか。。。

まあ、なんでもよい。そんなあらゆる危機を何度も経験し、何度も切り抜けてきた私だが、この腹痛だけはヤバイと察した。

早くトイレに行かねばならぬ。今すぐトイレに行かねばならぬ。


しかし今は走る車内。各駅停車。

景色はのんびりと流れていく。


私よ、落ち着け。

この電車は各駅停車だ。

我慢できなくなったら次の停車駅で降りればいい。

そのとき、私のスマホに今回の案件を紹介してくれた恩人からメールが届いた。


「お疲れ様です。念のためお伝えしておきますが、本日は先方のお偉方も同席されるので時間厳守でお願いします」


わかっている。そんなことはわかっている。

どのような理由を以てしても遅刻はできない。

目的地への到着時刻は、事前に乗換案内で調べていたのでほぼピッタリだ。

つまり時間がない。

よって電車は降りられない。

少しぐらい余裕を持って家を出ろ、という意見もあるかもしれない。

だが、そんなことを今議論しても仕方がない。

私はこの電車で向かうしかない。

腹痛を我慢するしかない。

あぁ。。。


考え事をしよう。さすれば、時間が速く進む。

思いあぐねていると、ネットで有名なあるコピペをふと思い出した。


 屁「屁です」

 門番「通ってよし!」

 アレ「屁です」

 門番「通ってよし!」


つまらないコピペを思い出すんじゃない!

アレらは平気で擬態することはよく知っている。そんな失敗は経験がある。

つまり、その状況を容易に想像でき、思考が現実となる引き寄せの効果を巻き起こしてしまうではないか!

違うことを考えるんだ。違うことを。


 す い か

 か き 氷

 ガ リ ガ リ 君


何故お腹を冷やすものばかり思いつく?

なんなんだ、私の想像力は?

どんなことを考えても、腹痛がひどくなっていく。

腹下しは腹下りという激流下りとなり、勇敢なるアレたちは濁流に乗って小腸を越え大腸に、大腸を超え直腸に進撃。

私の全神経は、最後の砦を守る門番へ援軍を送るかの如く、出口に集中させねばならぬ。

門番よ、突破されてはならない。絶対に死守するのだ。

絶対にだ。


ターミナル駅に到着。

おや?前に座っていた若造が席を立ちそうだ。

これはチャンス!

座ることにより、ギュッと引き締めた二つの割れ目を椅子に押しつけて固定できる。つまり守りをより強固にすることができるのだ。


ん?若造が立たぬ。

若造よ、何をもたもたしている?

ご丁寧にスマホを鞄にしまわなくてもいいのだよ。

そんなこと、立ってからでもできるだろ?

なんで、電車が止まるまで座っていようとするのかね?

若いんだから、そんなにぎりぎりまで粘らなくてもいいではないか!

早く立ちたまえ。

なんで、一瞬立ち上がる振りをして座り直した?

フェイントはやめろ。油断するじゃないか!

いいから早く立ちなさい!

立ちやがれ!


立った。

若者が立った。

信じるものは救われる。


いそいそと、そして脱兎の如く素早く空いた座席に滑り込む。

完璧だ。


しかし座席に着いた瞬間、私のもくろみはもろくも崩れ去った。

椅子は思いのほか柔らかく、二つの割れ目は左右それぞれに引っ張られてしまい、ますます出口が緩むのだった。


これはマズい。

内股になり、立っているときより倍ぐらいの力で二つの割れ目を締めなければならぬ。

それには、浅く座り、ピンと背筋を伸ばさねばならぬ。


私はOpenAIのロボットのようだった。

人としてあまりに不自然な姿勢。

まるで、おちょぼ口で逆立ちするような姿勢。


どう考えても立っているときより辛い。

そのような私は怪訝な目で見る人もいる。

ああ、人の目が気になる。


しかし、この姿勢は崩せない。

もし崩してみろ。緩む出口。アレの猛攻。砦の陥落。

地獄絵図だ。


ストッパ。

ストッパさえあれば。

私は昨日薬局に行ったのだった。

何故、そのときにストッパを買わなかったのか?

12回分 980円。

前から欲しいと思っていた。

一度は手に取ったのだ。

しかし、そのようなことはないだろうと思っていた。

甘く見ていたのだ。現実を甘く見ていたのだ。

その980円で浮き浮きしてアルフォートを買ってしまったのだ。

馬鹿。私の馬鹿。

悔やめ。恨め。自分を呪え。


不思議なことに、このように自分自身を責めていると、少しだけ気が紛れた。

そうだ。考えるのではない。

思いのまま、自分を責め続けるのだ。

駅に到着するまで自らを責め続け、意識を遠のかせれば良い。


ヒューヒューヒューヒュー


いつの間にか忍び寄っている外敵に気付き、意識は現実に引き戻された。

冷気である。

冷房から吹き出される冷気が腹に直撃しているのだ。

内股になり割れ目を締め、背筋をピンと伸ばしてい私の腹は突き出され、敵の格好の餌食となっている。


これはまずい。

攻撃の手を緩めない足軽に対して無抵抗主義は何の役にも立たない。

対策として鞄を膝の上に乗せて腹を隠してみたが、腹と鞄の間に絶妙な隙間ができ、冷気がこもるのである。

鞄を腹に押さえつけるようにすると、鞄自体がキンキンの冷房のせいで冷たくなっており、押さえつければつけるほど腹が冷えるのである。


そうだ。手だ。

人間が生まれながらに所有する優秀な道具。

「手当て」や「手かざし」という言葉は、その文字通り、手を当てたりかざしたりすることによって癒やすことから来ている。

そうだ。腹に手を当てるのだ。


あぁぁ、私は冷え性であった。


冷え切った車内のおかげで、私の手はアイスノンのようになっていた。

腹に手を当てたら、腹の方が温い。

試しに手をこすってみた。

水道の流れる音がした。

駄目だ。余計に悪化してしまう。


ちきしょう。

馬鹿みたいに冷やしやがって。

何故この車両は弱冷房でないのだ!?


駆け出したい。

トイレに向かって駆け出したい。

和式でも何でも構わん。トイレトイレトイレ。

心の底から私はそう思っていた。


ぎゅるぎゅるるぎゅるぎゅるるる


窓外では薄汚れた都会の景色が無情に流れ行く。

私の腹からは濁流の音が流れ行く。

まるで私をあざ笑うかのように。


アレどもの攻撃は激しくなるばかり。

必死に堪える門番だが、多勢に無勢。

しかし、私にも意地がある。

目的の駅まであと10分足らず。意地でも守り切ってやる!

私を舐めるなよ!


「先ほど桜ヶ丘駅におきまして、列車がお客様と接触したため、現在運転を見合わせております」


景色は止まっていた。

私の思考も止まっていた。

私の臨界点はすでに峠を越えていた。

茶色い足軽どもが縦横無尽に城壁に攻撃を仕掛けてきた。


あ、あ、あ、あ、


びびでばびでぶぅ

びびでぃばびでぃぶぅ

ビビでぃばびディブぅ

ビビディバビディブー

Bibidi Babidi Boo


ハハハ。

なんだか楽しくなってきたぞ。

ビビディバビディブー

歌おうではないか。

ビビディバビディブー

あれ。先程までたくさんいた人間が誰もいないぞ。

これなら踊れるではないか。

ビビディバビディブー

ハハハ

ハハハハハハ

ハハハハハハハハハ

ビビディバビディブー

さあ踊ろう。

ビビディバビディブー

ビビディバビ

ビビディバ

ビビデ

ビビ

ビディバブー

ブディ

ブブブー

ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ

ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ

ハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ


  ※  ※  ※


これは、この男が狂った一部始終である。

この男の敗残した姿は目も当てられないものであった。

しかし、現代。それは格好のコンテンツ。

この男の姿は心ないものによって「X」に投稿され、リポストされまくり、それが故に社会的に抹殺された

そして、バズった投稿者は勝ち組への道を歩んだのだが、それはまた別の話。

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今ここにある危機 ヤジー @shige-san-55

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