第4話
昨日から幾度となく見た蔦の模様の白い天井と赤いマットに飽き飽きとするが、自分の泊まっている部屋よりか狭い気がした。そして何故か、ホテルのベッドで寝ていた俺は目が覚めた。
重たい身体を抱えて辺りを見渡すと誰もおらず、静かな夕日が部屋を照らすだけ。
先程の事は夢だったのか、そう思える程静寂だった。
海斗は身体起こし、何故自分は此処で寝ているのかが分からなかった。
廊下で倒れていたのでは、今はラット状態ではなかったのか、色々な疑問が溜まる中、それを解決してくれる人は扉を開ける。
「起きたか。さっきよりか顔色良さそうだし、大丈夫そうだな」
エレベーターで会った男は片手にビニール袋をぶら下げ入ってきた。
「ここは?」
「俺が借りてる部屋」
「えっと、もしかして、あの後運んでもらいました?」
「うん、結構重かった。あと、親御さんには事情を言っておいたから安心しろ」
「あっありがとうございます。父と母は今どこに」
「今から来るそうだ」
「ーーそうですか」
「色々混乱してるだろうけど」
男は持っていた袋を海斗に手渡した。中身はペットボトルの水とゼリーに、筒状のカプセルが入っていた。
名前の無い筒状のカプセルの蓋を開けると、白い錠剤が手の平の上で転がる。
「何だこれ」
「ラット状態を抑える薬。予防薬じゃなくて、緊急用の薬な。吐き気とか気持ち悪いさとか抑えられるから持っとけ。後、強いからあんま飲むじゃねぇぞ。」
「えっ、何でそんな物持ってーーていうか君、Ωなんじゃ」
男から漂っていた、あの忘れたくても忘れられない噎せ返るような甘い匂いは、絶対と断言していいほどΩの匂いだった。
「おめが……何でそう思った」
「独特の匂いがするし、さっきみたいに気持ち悪くなるから、分かる」
「なるほどな、じゃあ嗅いでみろ」
「えっちょっと、人の話を聞いてた!また倒れるって」
『いいから』とジャケットを脱いで腕を捲り上げる男は拒否する海斗を無視して、鼻に腕を近づけてくる。
「吐いたら責任取ってくださいよ」
「分かった」
海斗はぎゅっと目を瞑り男の腕を恐る恐る嗅いだ。
「あれ」
何も匂いがしなかった。洗濯剤の香りとか、その人の匂いはするが、あの匂いは全くしない。
「全くしない、全然、無臭だ。なんで」
「……。簡単だ、何故なら俺はβだから」
「だって、あの時に匂いが充満してた」
「これだろ」
脱いだジャケットを海斗の目の前で煽る。
「クサっ!」
両手で鼻を塞ぐ。当然香ってきたのは、エレベーターの中で苦しくなるものだった。
『当たり』と男がニヤリと悪戯そうに笑うのを苛立ちつつ、この男がβであることの何よりの証拠を見せたのだ。
「だから、何も香らなかったのか。でも何でジャケットから匂うんだ。」
「それはさっきヒートのΩに触れたから。そして俺がそういう事を対処する救急隊だから。アンタが倒れた時に対処も早かったわけ」
どこかの部屋でヒートを起こしたΩを運び終わった男はエレベーターに乗り下へと行こうとした。その同時刻、部屋を出た海斗は偶然にも同じエレベーターに一緒となり、Ωの匂いが充満しているとは知らず海斗は強制的にラットを引き起こし倒れた。
知識のある男は直ぐに勘付き助けてくれたという訳だ。
運命的と言えば綺麗だろうか
「こんな事言うのはお節介かもだが、一回病院で診てもらったほうがいい。Ωの匂いでラット、発情状態なのに、興奮するどころか拒絶している。今回は俺がいたからいいが、また同じ事が起きてもしもがあるからな。」
確かに男の言う通りで、今回は助けてもらったが、頭を打ったりすれば気絶だけでは済まないかもしれない。
Ωには滅多に出会わないから、予防薬だけで良いだろうと済ましていたが今回で分かった、自分は重症だと言うことが。
「そうします。色々すみません、お世話になりました。」
「いや、いいよ。俺も注意不足というか、こういう事があるのに共同のエレベーターに乗ったのが悪かった。」
しくじったと頬を掻く。
「まぁお互い様ってことで、貸し借り無しだ。さて、俺は仕事に戻るけど、お兄さんは此処で親御さんを待っててな。」
「あの!」
男は海斗から離れると此処を去ろうと背中を向けたが、海斗は思わず腕を掴む。
言いたいことがあった、けれど掴んだ瞬間言いたいことは泡のように消えた。
「なに?」
目を見開き振り向く男、キャラメル色の髪が夕陽に照らされキラキラと輝き、淡麗な顔は色を増した。
こんなにもこの男は綺麗だっただろうか。
「まだ、何かあるか?」
「え、えっと」
何故自分は今日会った他人引き止めてしまったのか後悔で口をモゴモゴと動かす海斗を、不思議そうに男は見つめた。
「海斗っ大丈夫!」
無言で見つめ合う2人。そんな微妙な空気をぶった斬るかのように勢い扉を開け飛び出してきたのは母親だった。
「急に倒れたって聞いて、頭とか打ってない、怪我してない」
詰め寄っては海斗の顔をあげたり横にしたりと隅々まで体を確認する。
「だっ大丈夫です!」
「良かった。倒れたって聞いて心配して、怪我とかしてない?」
「いえ、全然まったく!」
心配している母親を他所に真っ青な顔に額から冷や汗が流れ出る海斗。気絶してすっかり抜けていたことがあった、夜まで恋人を連れて来るという約束。外を見れば、約束までの時刻はもう太陽が沈みかけていた。
どうしよう、どうしよう。このままではお見合いする羽目になる。
握っていた手を忘れ、海斗の頭の中は混迷に差し掛かっていた。
「あんた、また顔色が悪くなって」
海斗の目元にかかった髪を払うと男は眉を顰めて覗き込む。
この時海斗には目の前の男が、後光が差した神様のように見えた。もう用はないはずなのに、いつのまにか握っていた腕を掲げていた。
「僕!この人付き合ってます」
「はぁ!?突然あんた何言って」
男はまん丸とした目で、海斗の手を振り下ろす。
抗議の声は上がっている、それでも、何としても切り抜けたい海斗の口は止まらなかった。
「長い間、お付き合いしてまして。それは、それは、出会った時から僕は彼にぞっこんなんです。
母上の言っている事は分かってます、家の未来の事を考えれば娘さんと結婚をすることも大事。でも、これからも僕は彼しか考えられないのです。αでもβでもΩだとしても、そんなのは関係ない、もうこれは運命としか言いようが無いんです!
だから、今日どれだけ心を引き裂かれたことか。お願いします母上、僕と彼の事を認めてください!」
人生をかけた渾身の演技は一か八かの嘘。
バレたら殺される。
海斗の心臓が叩くようにバクバクと音を響かせ、緊張のあまり固く閉じた目をゆっくりと開くと、そこには『まぁ』と口に手を当て、頬を赤らめた母親がいた。
「それほど、思う方と出会っていたのですね。母親ながら知りませんでした。
そちらの方、なんというお名前ですか」
「えっ、佐藤 (さとう)ですけど」
「佐藤さんですね。僭越ながらそうとは知らず、今日の事はごめんなさい。」
目がキラキラとガラス玉のように輝く母親は次に男、佐藤の手を優しく握る。
全てが理解出来ない佐藤は戸惑うまま母親の圧に押されて一歩後退する。
「いや、関係ないで」
「いいんです、そんな謙虚になさらなくても良いんです。もう、あれだけの情熱を息子から感じたのは初めてです。安心してください!お見合いは全て白紙にしますから」
「あのだから……白紙以前に何もかも関係ないって」
「海斗、貴方の言葉は受けとりました。私は貴方に謝らなければいけない。
信じてあげられなかった事、本当にごめんなさい」
「お母様!人の話を聞いてもらえませんか」
「あら、やだお母様なんて。まだ早いですよ」
「そこは聞こえるんだね!」
口は円を描き母親は照れ隠しに佐藤の肩を叩く。片頬を引き攣らせ、佐藤は話が全く通らない事に絶望していた。
「良い人じゃないか」
いつの間にか海斗の横に来ていた父親は、母親と佐藤を見守っていた。
「今日会った人何ですけどね……」
「いいじゃないか、それもまた運命だよ。」
「あはは……」
「後で佐藤君には謝る事だ」
「はい……分かってます」
助けてくれた人、佐藤を巻き込んだ事は多少罪悪感で心に刺さるが、それでもこの人で良かったと思えた。
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