慟哭する男 (環境工学科三年 西沢春樹)
それから
穂乃果は意外なくらい献身的に春樹を愛した。オーラルなども抵抗なく始め、春樹の精を飲み干すことも厭わなかった。しかも春樹が動けなくなるまでその男性を求めた。
こうして二人は半月もしないうちにすっかり二人の世界を作り上げた。それは大学にいる時の二人とは全く別人同士のスタイル。穂乃果はキャンパスでは相変わらずゲラでありつづけ、春樹は真面目な優等生の看板を掲げ続けた。
それもこれも穂乃果によるところが大きいと春樹は思っている。彼女は想像以上に大人だった。今まで男とは縁のない生活を送ってきたとすっかり騙されてしまったが、彼女は彼女なりに交際相手をつくったりしてエンジョイしながら生きてきたのに違いない。ただそれを表に出さないだけなのだ。
そのテクニックには全く参る思いだった。そしてまた他の男たちに見せる顔にも頭が下がる。
穂乃果は自分の容貌にそれなりの自信があったに違いない。
あとで聞いたところによると、綺麗な姿は好きな相手にしか見せないというポリシーを持っているということだった。それにはさすがに春樹も唸らされた。
春樹と初めて実験を組んだとき、穂乃果はこれがチャンスとばかりに春樹に仕掛けを打ったと正直に白状した。ふだん身につけないようなスカート姿を見せたり、足を開いたり膝を見せたりと春樹を悩殺する手段も講じたらしい。結果的に春樹はまんまとその策に引っかかったわけだが、今となってはそれも楽しい思い出であった。
ただテレビを買いに出たときの出会いだけは計画的ではないと穂乃果は訴えた。あれは完全に偶然の邂逅だったという。そしてこれこそ運命だと思い、どういう手段を使ってでも春樹を自分のマンションまで連れて行くと決意したらしい。それが遥佳と想いを遂げられなかった春樹の落ち込みによる彷徨と見事にマッチしたと言う結果をもたらしたのだった。
冷やかされることが嫌いな春樹は、今のところ穂乃果との仲を誰にも明かしていない。遥佳とデートしていたときもそうだったが、誰かに知られてそのためにうまく行かなくなる可能性があるかもしれないと悲観的に考えることがあるからだった。そして穂乃果もそれを了承している。彼女もまたゲラのキャラを維持したまま、そっと二人の愛を育むことを提案した。
だから春樹は、遥佳がどうやら
大学にいる時は、穂乃果と会っても全く違和感のない態度でいることができる。それは彼女の心がしっかりと自分と結び付けられていると確信しているからだ。これを大事にするために自分は今まで通り平然と穂乃果と接するようにしようと春樹は考えていた。
そして一歩大学の外へ出ると、全く別のプライベートの時間が始まるのだ。
穂乃果のマンションは大学とは方向も距離も離れたところにあったから、彼女の生活圏で活動する限りは大学の知り合いに二人の仲が知られることはなかった。
こうした秘密めいた付き合いが、二人の仲をさらにいっそう強固なものにしていった。二人だけで共有する秘密。これ以上に何が必要であろうか。
さすがに毎日穂乃果の家に泊まるわけにもいかないので、二人は約束事のように泊まるのは週に一度と取り決めた。それ以外の日はどんなに遅くなっても春樹は自宅へ帰ることにする。別れる時は寂しくて辛いこともあるが、このくらいの距離が長続きには必要だと二人は割り切っていた。
その夜も、春樹は穂乃果の車に乗せられて駅まで送ってもらった。もう十時半。すっかり暗くなっているし、仮に知った学生がいたとしても車の中にいる人間がだれかなどわかりやしないだろう。そう思うと徐々に大胆になっていくものだ。車から降りた春樹は運転席にまで移動して窓から顔を出す穂乃果に思わずキスをしてしまった。
「もう、バカね、こんなところで」
穂乃果に叱られたが、彼女もまんざらでもないようだった。恥ずかしそうな顔をして手を何度も振り、車を発進させてロータリーを抜けていった。
車を見送り、それが見えなくなるまで春樹は立っていた。
そしてふっと駅へと足を向けた瞬間に、目の前十メートルほど先に
長瀬は何やら熊のような大男と一緒にいたが、すでに春樹の姿を認知していたようだった。
「よお、めずらしいな
長瀬は相変わらず不遜な物言いをする。それが春樹の
「今の、
長瀬の問いに春樹は一瞬凍りついた。やはり見られていたのか。しかしだからどうだというのだろう。まさかみなに言いふらすというわけでもなかろう。
「あ、ああ、そうなんだ」
歯切れが悪くなっているのに春樹は気づいていたがどうにもならなかった。
「青春だねえ」と長瀬は春樹の気に入らない態度で喋り始める。どうやら先ほどのキスも目撃されたようだった。「北見と安野がくっついたと思ったら、今度はお前と関本か。みなそれぞれ頑張っているじゃないか」
長瀬は意地悪く高笑いしているようだった。横にいる男は暗いので顔は良く見えないが、終始黙っていて、少なくとも長瀬の友達には見えなかった。彼もまた長瀬に不本意ながらつき合わされている人間なのだろうか。
「わ、悪いけど、関本さんと一緒にいたことはあまりみなに言いふらさないでくれるかな。君と違って僕たちは、その……少しシャイなもので……」
そういう弱みを見せるのは本意ではないが、長瀬がべらべらと喋ると話の内容が屈折していくような気がして春樹は仕方なく釘を刺すことにしたのだった。
「わかった、わかった。誰にも言わないよ」
長瀬は調子よく答えた。しかし完全に信用できるかといえばそれは疑問である。こうなったらいずれ折を見てみなに穂乃果とのことを公表せざるを得ないだろうと春樹は考えたのだった。
「関本もシャイだからなあ」と長瀬はわかったような口ぶりで言った。「彼女の秘密主義も相当なものだ。何しろ男は全く寄り付きませんという顔をしているものなあ。みんな騙されるよな」
話が思わぬ方向へ展開しようとしていることに春樹は徐々に気づき始めていた。妙に穂乃果に対して馴れ馴れしく語る長瀬は、ついに驚くべきことを口にした。
「あいつは俺とつきあっている時も、誰にも知られないよう口を閉ざしたり、平然と笑ったりしていたからな、相当な女優だよ。しかしセックスを手ほどきしたのは俺だぜ。何から何まで俺が仕込んだんだ。覚えが早くて感心させられたがな。そうそう確か左太ももの付け根に小さな赤あざがあるんだが、それを吸ってやるとひいひいって喜ぶんだぜ、今もそうなのかい?」
長瀬の言葉が最後まで頭に入ってきたのか春樹は覚えていない。いつの間にか駅に向けてふわふわとした雲の上を歩くように移動し始めていたからだ。
この道は奈落へと続くのか。夜の駅の明かりが黄色く滲みはじめ、夜の街並みが暗黒に穢れていくのを春樹はこの目でしっかりと見た。
俺はどうしても長瀬の呪縛から離れることはできないのか。春樹はいつしか慟哭していた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます