誘われる男 (環境工学科三年 西沢春樹)
中古とはいえ
三階まで持って上がるのが大変そうな顔をするので、
おまけに理工系の大学に通っているくせに穂乃果はテレビの繋ぎ方がわからないなどと情けないことを言う始末で、それが嘘であることを春樹はうすうす気づいていたが、彼女に勧められるまま彼女のマンションにあがることになった。
築三年程度の綺麗なマンションだった。ワンルームなので部屋はLDKにも見える。さすがに女の一人暮らしだとはっきりわかってしまうような装飾は施されておらず、カーテンの色も地味なモスグリーンという内装だったが、目の前にいきなりベッドがあったりして春樹は妙に意識する自分を感じていた。
「ひとりで
「でも、やってもらった方が速いじゃん」
穂乃果は平気な顔をして答えた。
テレビが映ると、やはり二十二インチくらいあって良かったと思われた。部屋が一気に明るくなった気がして、穂乃果は歓声をあげた。
簡単なことで喜怒哀楽を表現する穂乃果は学内では異色の存在だと春樹は思っている。しかしそのゲラが、少し前から春樹にときどき女の面を覗かせるようになった。
いつの間にかコーヒーが淹れられている。気づかれないように静かにてきぱきと穂乃果は動く。設置したばかりのテレビでニュースを見ていたら、「ごはん食べていってよ」といきなり声をかけられた。
「え?」
すでに穂乃果はエプロン掛けしてスパゲッティをゆでる準備にかかっていた。
「いや、いいよ、もう帰るよ」
「えええ!
こういう強引なキャラクターだったかと春樹は首を傾げた。
大学にいる時の関本穂乃果は、確かに明るく誰とでも話せる女子学生だったが、げらげらわらったり、派手なアクションで目立つ割には意外に控えめで、相手のペースにあわせるタイプだと春樹は思っていた。決して自分から誰かをひっぱったりリードするということはないはずだ。
ところが今春樹の目の前にいる穂乃果は、テレビを買うのにつき合わせたかと思うと、それを自宅に運ぶのを手伝わせたり、セッティングをやらせたり、あとはお礼だといって夕食を無理に食べていけという態度に出ているのだ。何だかすっかり振り舞わされているような気がするのだった。
「いつも、ひとりで自炊しているの?」
「うん、まあね。殆どレトルトばっかりだけど。今日のパスタだって、ソースは缶詰だし」
穂乃果は悪戯っぽく笑った。ゲラの笑いとは異なる照れたような笑み、こういう顔もできるのかと春樹は驚いた。
「大学の奴、誰か連れてきたりしないの?」
「それって、
ここで遥佳の名前が出るとは春樹は思いもしなかった。おそらくは自分が遥佳に心を奪われていたことなど誰の目にも明らかだったに違いないと春樹は思った。
「あ、ごめん、深い意味はないんだ」と穂乃果は春樹の心を読んだかのように言い訳した。「遥佳も
どうして自分をと春樹は思った。たまたま出くわしたからテレビを選ぶのにつき合わせ、その礼にということでもてなしているのだろうが、それにしては馴れ馴れしすぎる。他の男だと誤解するかもしれないぞと春樹は思った。
「ほらほらできましたよ。缶詰だけどね」
やたらと大盛りに盛られたパスタが皿にのせられて目の前に並べられた。小さな座卓に山盛りのパスタ、とり皿に申し訳程度のレタス、トマト。毎日こういうものを食べているのかと心配になってくる。
そう考えると穂乃果がふだんどういう暮らしをしているのか気にかけたことがなかったことを春樹は思い出す。
学内では誰とでも話ができる陽気な学生、しかし特別親しくいつも一緒にいるという女友達がいるような印象もなかった。
誰かしらと一緒にいることが多いが、一歩大学を出ると穂乃果はまっすぐに家に帰るタイプなのだろう。家電を買う付き合いをする仲間がいるわけでもない。
他の女子学生を思い浮かべてもそれぞれがマイペースに動いているように見える。
春樹は、自分が
「このマンションの家賃とかどのくらいするの?」
穂乃果はパスタを頬張ったまま、片手を使って説明した。
「それどうやって作っているの? アルバイト?」
「仕送りと半々かな。いや仕送りの方が多いかも」
悪びれずに穂乃果は答えた。育ちが良いというか、親からもらえるうちは貰っておこうという感覚に違いないと春樹は思った。
いかに通学が大変とはいえ、それだけが理由で大学近くにマンションを借りることができるなど羨ましい限りだった。それとも何か他に目的か理由があるのだろうか。しかし春樹にそれを確かめる度胸はなかった。
お互いの肌に息を吹きかけるようなありふれた質問をしあったり世間話をするうちに食事も終わり、いつしか時も経過していった。
時刻は間もなく八時になろうとしていた。いつまでも女性一人の部屋にいるわけにもいかない。春樹は部屋を去るタイミングを見計らっていた。
「じゃあ、明日も早いし、そろそろ帰るよ、今日はご馳走になったね」
「ううん、こっちこそ運んでもらって、その上セットまでしてもらったからね、大変感謝しているわ。ほんとに西沢君て優しいね」
あまり嬉しくはない褒め言葉であることを春樹は自覚していた。自分に対する評価はたいてい「優しい」だと思う。それが他に褒めるところがないときに使われる言葉であることを春樹はようやく知るようになった。
「食器ぐらい洗わせてもらうよ」
春樹は皿を手にして立ち上がった。
「そんなことしなくていい」
慌てて穂乃果も立ち上がる。ふたりで流しに運んで互いに自分が洗うと言いあっているうちに春樹は穂乃果の腕に触れていた。
あれほど遥佳の体に触れるときには緊張と抵抗があったのに、穂乃果に対してはなかった。ただ女性の体に触れてしまったなというわずかな罪悪感のみが頭を過ぎった。女性の体。そう穂乃果は女性だったのだと春樹は改めて思い出した。
大学ではセックスアピールは全くない。男子学生たちもはじめこそ女子だというので少しは意識したろうが、穂乃果がゲラと名づけられるに及んでそういう対象ではなくなっていった。
かくして穂乃果に浮いた噂は微塵もない。その穂乃果と先日実験を組んだとき、春樹はしゃがんだ彼女の白衣の合わせ目の間からスカートの奥を見てしまった。あの時感じたある種微妙な興奮を今春樹は思い出していた。
室内灯を後ろにした穂乃果の顔は少し暗くなっていて表情がはっきりと読み取れない。いつしか顔が接近していることを、穂乃果が発するほんのりとした女の匂いを鼻腔に感じて春樹は悟り、触れていた手を離した。
「もっと、ゆっくりしていけばいいのに。何なら泊まっていってもいいのよ」
耳を疑うようなことを穂乃果は口にした。あまりのことに春樹は幻聴を聞いたのかと思った。
「え?」と思わず口に出る。そのあと二人の間にしばらく沈黙が続いた。
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