沈みゆく男 (環境工学科三年 西沢春樹)
目が覚めたとき、
部屋を見回すと
もう一つのベッドも使われた形跡があり、遥佳が暫くの間春樹と同じように休んでいたことが窺えた。加えてベッドの上には遥佳が身につけていたブルーのワンピースと白のジャケットが綺麗にたたまれて置かれていた。
すっかり回転が鈍くなった頭で引き算をしても、遥佳が身につけることができる衣類がどの程度残っているか答えを出すのは簡単だった。
途端にまたも動悸がしてくる。酔いもすっかりと醒めてしまった。
そして自分が何をしようとしていたのか思い出し、朝から張りつめていた緊張の糸がぷつんと切れて、たちまちいつもの自分になっていくのが感じられた。
いつの間にかシャワーの音が止んでいた。ドアが開けられ、バスタオルを体と頭に巻きつけた半裸の女が出てきた。その露出した肩のあたりから湯気がなまなましく立ち
遥佳は起き上がっていた春樹に気づくと、急に両肩を抱えて浴室に戻った。
そういう恥じらうような仕草はさらに春樹を混乱させた。
「ごめん」といって毛布をかぶった。
その様子を顔だけ出して見ていた遥佳は慌てて飛び出し、「いいのよ、ちょっとびっくりしただけ」と言って自分が休んでいたベッドへと移動した。
こういう状況においてはじめに冷静になったのは遥佳のようだった。すでに肝が据わったかのように窓際の方を向いて薄いカーテン越しに外の夜景を見ているようだった。
一方まだキスもかわしていない相手のバスタオル姿に圧倒された格好の春樹は、遥佳の妖艶ななりにすっかり毒気を抜かれていた。一時は緊張しかかっていた下半身が徐々に萎えていくのがわかる。
はじらう姿に、もしかして遥佳は長瀬に純潔を捧げずにすんでいたのかもしれない、と淡い期待を抱いたことが間違いであることに気づくのに短い時間しかかからなかった。
時計を確認するとすでに午後十一時を過ぎていた。これから電車を使って自宅に戻るのはすでに微妙な時間帯になっていた。
「君、もう帰れないのでは?」
「そうかもね」と遥佳は落ち着いていた。「いいの、うちは意外に放任主義だし、それに今日出てくるときに友達の家で誕生パーティーをするなんて言い訳してきたの。泊まってくるといっても大丈夫よ」
そういわれるとそうだったかもしれないと春樹は思い出した。またそうでなければ長瀬とは付き合えなかっただろう。逆に言えば長瀬とは相当外泊をしてきたことを暗示していた。
「おふろ、入ってきたら? 目がさめると思うよ」
遥佳に言われる前に春樹はすでに酔いが醒めていた。しかし遥佳の言うとおり浴室へ駆け込んだ。服を着たまま入ったことに遥佳は何か言っていたようだが、よく聞こえなかった。
浴室の中はまだ湿気がこもっていた。このために遥佳は着ているものを浴室へ持ち込まなかったのだろうが、春樹にはそういう度胸が全くなかった。
すでに素面の自分に戻っている。裸になったところを見られたくないのは春樹の方だった。
春樹は考えた。高ぶった頭が考え出した当初の計画を遂行するのか。ここで遥佳を抱き二十歳まで引き摺ってきた童貞と別れを告げるのか。
もちろん遥佳はすでにその覚悟はできているようだ。今部屋にいる遥佳は、春樹が大事にしてきた男性不信の遥佳ではない。すでに長瀬から受けた傷をすっかり綺麗に治した二十歳の大人の女だった。
用意は万端だったはずだ。手元に用意した避妊具もある。初めてで早く漏らしてしまう
体が言うことを利かない。下半身がまるで緊張しないのだ。まさに何もできない状態だった。
いくらあせったところでどうにもならない。極度の緊張が春樹をパニックに陥れていた。
ジャケット以外を元通り着た状態で浴室から出てきた春樹を、遥佳はくすっと笑ったような顔で迎えた。遥佳には春樹の緊張と焦燥が全く理解できていないようだった。
遥佳は備え付けのガウンを身に纏っていた。室内の仄かな灯りが、遥佳の微笑を妖しげに浮かび上がらせる。
ぞくっとした感覚が全身におこり、春樹は上半身がしびれるように冷えていくのを感じた。
ここまで来てこの
「すっかり酔いが醒めたみたいね」
「もう一度飲み直そうかと思っている」
そうでもしないと身動きが取れないと春樹は考えた。
遥佳を部屋で待たせて、缶ビールを買いに出た。
すっかり覚悟を決めた遥佳は別人のようだった。
春樹はそこに長瀬の施した調教の痕を見たような気がした。男を迎える女の接遇とでもいうべきもの。またしても長瀬は遥佳の中に現れ、自分を嘲笑している。その笑い声が春樹の中で何度もこだました。
部屋に戻ってからも、すっかりリラックスした遥佳とは対照的に、春樹の緊張はますます亢進した。もはや缶ビールくらいではどうにもならないほど体はかちかちになってしまう。
それが初めてであるがゆえの緊張なのか、長瀬の呪縛なのか、もうどちらでもよいような気になっていた。
とにかく自分は遥佳を前にして全く動けなくなっている。蛇に睨まれた蛙とはよく言ったものだ。
だから遥佳が思わせぶりなことを言ったり、時々黙って目を閉じる仕草を見せても、咄嗟の反応を示すことができなかった。
そしてそういうことを繰り返すうち、異性に対して
「ごめん、やっぱりできない」
春樹がそう呟くのを遥佳は
「それは、私が長瀬君の元カノだったから?」
遥佳は思いもよらないことを口にした。そんなことまで考えていたのかと春樹は驚いた。
「ちがうよ。その、つまり、役にたたなくなっているんだ」
暗に仄めかすが遥佳はどう理解したことだろう。
「いきなり、そんなふうに考えなくたって……」と少し恥ずかしそうにしたあと、「もっと簡単なことから始めればいいのよ」
近寄った遥佳は、ベッドに腰掛けてうなだれている春樹の横に坐り、横から見上げるように見つめた。
そしてゆっくりと目を閉じる。それがキスを催促していることは重々承知していたが春樹はなかなか思い切れなかった。
こういう遥佳を見たかったわけではない。
ではどうなれば良かったのだ。自分のペースで遥佳をリードしたかったのか? それができないのはなぜだ?
そこでまたしても長瀬の顔が浮かんだ。
遥佳は春樹の膝の上に手を載せ、自らの体重を春樹に任せるように寄り添うて来た。
春樹は長瀬の幻影を断ち切るかのように思い切って遥佳の腕を掴んだ。
どういう手順を踏んだかよくわからない。気づけば春樹は遥佳と唇を重ねていた。
初めて口にする女の唇はやわらかくしっとりとしていた。
しかしそういう感覚がようやく脳に達した頃、遥佳の舌が口内に侵入し、その中を自由に踊り始めた。
それを受け止めようと春樹も不器用ながらも舌を絡ませる。二人してそのままベッドに倒れこんだ。
遥佳の両腕をしっかりと捉えたままの不恰好さを嫌い、春樹は右腕を遥佳の
どうにか触れることができたのだ。そのままどんどん先へ進んでいけば良いはずなのに、春樹の体は緊張したままだった。
薄いガウンの生地を通して遥佳の胸の高まりの先にある突起に触れたとき、春樹はとうとう遥佳の女の部分のひとつに触れた気がしたが、その時点においても下半身が立ち上がることはなかった。
こんなことなら予め自らを慰めるという愚かな行為をしなければ良かったと春樹は後悔した。もし万全な状況だったら、あるいは遥佳を十分にもてなすことができたかもしれないのだ。
それにしても遥佳の動きはすべてにおいて春樹の想像を超え、女の姿態を存分に披露しているようだった。
春樹はそこにやはり長瀬の影響を感じた。初めての接吻で舌を絡ませることが当たり前のことかどうか春樹には知る由もない。ただ遥佳がそういうことに長けているように春樹は感じた。
いやこれも長瀬の教育か。一年半ほど男性を遠ざけていた遥佳でさえこれなのだから、他の女性たちはどうなのか、推して知るべしだと春樹は思った。
しかしビールの力を借りても、遥佳の助けを借りても、そして遥佳の艶かしい吐息を耳にしても、春樹の体は全く機能しなかった。
あきらめたように遥佳は春樹に体を預けた状態で眠りについた。
緊張に喘ぐ春樹は眠れない。薄ら灯りに照らされた遥佳の寝顔をそっと見たとき、その頬につたわる涙の筋を春樹は見たような気がした。
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