思いつめた男 (環境工学科三年 西沢春樹)
思いつめたらここまで動くことができるのだと
問題はその後だった。
連休だというのにホテルの部屋はとることができた。一か八かのキャンセル待ち狙いで電話を入れたら空室があるとのことだった。
これもめぐり合わせなのかもしれない。そういう運命だったのだと。
家族には友達のところで飲み明かすと言っておいた。たまにそういうことをしているので何の疑問ももたれない。それにいまだに彼女がいないものと思われているので全く疑われないのだ。それも情けないことであったが。
あとは遥佳次第だ。実家暮らしなので急に泊まるという離れ業ができるとは思えないが、僅かな時間でも部屋で一緒にいることができたら、これからのふたりがどうなっていくかはっきりする。それが春樹の考えたことだった。
途中で立ち寄った薬局で避妊具も購入した。どれが良いのか全くわからなかったが最も品数があるものを手にして買った。他の品物に紛らせて買うことも考えたが姑息な手段のように思われ、どうせこの店には二度と来ないだろうと開き直って堂々と買った。
さすがにレジの女の子が若くて可愛い子だったので少し緊張したが、彼女は慣れた手つきで黙ってそれを外から見えない紙袋に入れた。こうしたことは日常茶飯事なのだろう。
ホテルには予定通り早く着いたので、化粧室の個室に入り込んで、避妊具の箱を開封する。中には一ダースものそれが入っていたが、それらを少し珍しそうに眺めてから財布や鞄の内ポケットなどに分けて仕舞い、箱は処分した。
果たしてこれを使うことがあるかどうか。まだ手も握っていない相手だ。しかし自らの決意を強固にするためには必要なツールだった。一種のお守りだと春樹は思うことにした。
チェックインを済ませ、部屋へ入る。ツインの部屋だった。さすがにダブルとは言えなかったのだ。
しかし綺麗に整えられた二つのベッドは、使われることがあるのかどうか全く予感させず、ひっそりと薄暗い灯りの下で春樹の動悸を聞いているようだった。
何事にも準備を万端にすることを考える春樹は、スキンを一つ取り出して浴室に入った。実際にかぶせてみるとまずまずの密着感だ。そのまま遥佳だけを思い描いて慰めた。
うまくいきそうな気がした。体液は洩れることなくそれの先に吸い取られ、春樹はシャワーを浴びて汚れを落とした。こうして一度排出しておけばお漏らしの予防にもつながるだろうと言い聞かせた。
五時半になってロビーに下りた。ある程度予想していたことだが、遥佳はすでに来ていた。ブルーのワンピースに白のジャケット。ストッキングは肌の色に馴染んでいた。大学にいる時とも、ふたりでこれまでに会った時とも異なる大人びたスタイルに春樹は目を瞠った。
「どうしたの、その格好?」と遥佳も春樹の大人びたジャケット姿を冷やかした。
「大人のデートね」とはしゃぐ様子に春樹は眉をひそめた。
これまでふたりの間で「デート」ということばが出たことはない。今まではあくまでも自然な形での「お出かけ」だった。形はどうあれ、はっきりと交際宣言をしたことすらなかったのだ。
「そうだよ、今日はおとなのデートだ」と春樹は目も合わさずに言った。遥佳がどういう表情をしていたのか春樹には全くわからなかった。
ここにきてやはりまだ自分は逃げているのかと思った。しかし考えている時間はない。少し早いがふたりは予約していたレストランへ向かった。
今夜はかなりの出費になる。アルバイトで貯めていた金を殆ど放逐するほどだった。これが一度きりかもしれないという覚悟、春樹はそのように思いつめていた。
ふだんなら「勿体無いよ」と反対する遥佳も今日は何も言わなかった。それが彼女自身にも何らかの覚悟が秘められていることを暗示していた。
席に案内され、適当なワインを頼んで、グラスに注がれた時、初めて二人はまっすぐに向き合った。
「昨日のぼくと今日のぼくは違うよ」
春樹はさらりと言ってのけた。
「あら、どう違うの?」
遥佳は「ふふ」と微笑を浮かべる。そこに大人の女がいるように見えた。
ああやはり遥佳は大人の女性だったのだと春樹は思い知ったが、
「ふたりのこれからを考えて、覚悟を決めたんだ」
「覚悟?」遥佳の目が光ったような気がした。
「そう、昨日ぼくはこのままではいけないと思った。何かこう宙に浮いているというか、地に足が着いていないというか、とてもふわふわと浮ついている感じで、やることなすこと失敗ばかり、すべてがぎこちなかった」
「そんなことなかったわよ。失敗なんかしてないじゃない」
「今日はじっくりと話し合おうと思う」
料理が一つずつ運ばれる。一番手が届く値段のコース料理だ。それをふたりで楽しんだ。しかし味は今ひとつよくわからない。果たして彼女もおいしいと思っているのかと春樹は疑いもした。
そうなるとアルコールだけが進んでしまう。ふたりでワインを空けてしまうとグラスビールに切り替えた。
ふたりとも特別飲めるというわけではないが、何だか異常なペースで飲んでいった。それくらいふたりとも気が高ぶっていたようだった。
何を話しているのか、春樹も遥佳もはっきりと認識していたわけではない。しかし話はつぎつぎとまわり、続いていた。これまでのような気の抜けたような
メインディッシュが片づけられ、あとはデザートとコーヒーが運ばれるだけとなった頃、すで春樹は相当酔っていることに気づいた。見れば遥佳も眠そうな目をしている。学生のコンパでもここまで酔うことはないだろうという感じだった。
「眠そうよ」
遥佳の指摘に春樹は強がるように答えた。
「君こそ、ちゃんと歩けるのか?」
「平気、平気」と遥佳はデザートを頬張るように食べた。
目が据わっているように思える。しかしそれは春樹も同じだったろう。
それぞれに想いを秘めて、かけひきをするかのように差しさわりのない話をしながら、いつ本題が出るかと待っていたために、ペースを乱して飲んでしまったのだった。その結果として大事な話が一切されないままクライマックスを迎えてしまっていた。
「ラウンジで酔いを醒ましてから帰る?」
「そうね」
立ち上がったとき、遥佳はかなりふらついていた。春樹もゆっくりとしたペースで歩き、支払いを済ませた。
レストランを出て、ふたりはよろけてぶつかった。遥佳の頭があごにぶつかり、春樹は少々痛い思いをしたが、皮肉なことにそれが意識しあってから春樹が遥佳に触れた最初のこととなった。
「ごめん、痛かったでしょう?」
遥佳が心配そうに見上げた。その潤むような目を見て、春樹は酔いも手伝い思い切ったことが言えた。
「実は部屋をとってあるんだ。休んでいかないか?」
言ってしまってから顔がさらに火照った。体は反対に凍りついたように動かない。
それを見て遥佳は余裕の笑みをうかべて言った。
「そんな気がしていたわ」
エレベーターに乗っている間、ふたりはすっかり無言となっていた。他に誰も乗っていない。こうした時肩を抱いてキスでもするものなのかと春樹は勝手な妄想を抱いたが、どうするものか迷っているうちに部屋のある階についてしまった。
おぼつかない足で静かな廊下をふたり歩いた。カーペットを踏む音だけが響いているようだった。やがてその音が止み、カードキーが差し込まれ扉が開いた。
心臓の鼓動が危ないくらい速く鳴っている。動悸とともに眩暈がしそうだった。
「ベッドが二つ……」
後ろで遥佳が何だか呟くように言ったようだが、春樹には聞こえなかった。なぜなら春樹はそのまま手前のベッドに倒れこんだからだった。
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