ささやく男 (環境工学科三年 安野康司)

 連休中にアルバイトをたくさんいれていた安野康司やすのこうじは、帰宅して間もなく北見遥佳きたみはるかからメールを受け取った。「電話してもいい?」という簡単な内容だ。おそらくはメールでは伝えにくいことがあるのだろう。メールでは文字に残ってしまう。

 それが西沢にしざわに関することであることを安野はすぐに察知した。安野は九時以降ならと返事のメールを送った。

 九時を少し前にして安野は自分の部屋に閉じこもり、遥佳からの電話を待った。電話は九時きっかりにかかってきた。

「今、大丈夫?」と遥佳は訊く。

「ああ、大丈夫だよ、西沢のことか?」

「うん」

「どうした、やけに沈んでいるように感じられるが」

 相手が喋りやすいように話を持っていく。それくらいの芸当はお手の物だった。長瀬ながせほどではないが、自分には女を上手じょうずに相手にする力と技が備わっているというのが安野の自慢だった。

「今日、おでかけしたんだ」

「へえ、どこへ?」

「佐原の街中」

「それはまた、渋いところを選んだね」

 遥佳はせきを切ったように西沢とのデートの様子を話し始めた。

 安野はそれを面白半分、嫉妬半分の気持ちで聞いていた。

 何かあったら相談にのる。男の気持ちは男の方がよくわかると遥佳に暗示をかけていたことが奏功したと安野は思った。

 長瀬の元彼女だったとはいえ、あまり男との経験がない遥佳の話なので、当然のように生々しい表現は聞かれなかった。遥佳が訴えるのはほとんど精神論を逸脱しない。ときどき話が途切れるだの、こちらを見て話をしないだの、西沢に対するわずかな不満を口にするだけだった。

 それは西沢を恋するが故の不安の表れであり、それが安野の嫉妬心を刺激した。

 中学生の女子ではあるまいし、少なくとも長瀬の彼女だった女とは思えない訴えだと安野は思った。

 安野は、やはり長瀬の彼女だった名手美奈子なてみなこと付き合ったことがある。長瀬とはわずか二月ほどしか交際期間がなかったはずなのに、美奈子はすでに性的に開発されていた。これがついこの間まで処女だった女かと思うくらい体は敏感に反応し、安野に奉仕する技術も持ち合わせていた。

 その行為だけに溺れたがために安野と美奈子はあまり長く続きはしなかったが、わかれてそれほど後悔を感じていない。安野にとって美奈子は通過点に過ぎないからだった。美奈子の方もその後何人かと付き合っていると聞いている。

 美奈子は今やすっかり垢抜けた、引く手数多あまたの美人女子大生だった。美奈子をそのように導いたのは長瀬だと安野は思っている。

 それを考えると、遥佳も長瀬の洗礼を十分に受けているはずだった。あの清らかにも見える可愛い顔でどういう喘ぎ声を出していたのかと想像するだけで安野は興奮するのだった。

 一度は遥佳と男と女の関係になっていたいと、この二年近くずっと思い続けてきたのだ。

 しかし遥佳はすっかり男と距離を置くようになり、西沢などの人畜無害な男子学生とかろうじて口を利く程度になってしまった。

 もう遥佳とは縁がないなと安野は諦めていた。遥佳には惹かれるが、一生をかけて愛するという相手でもないというのが安野の認識だった。

 だがここに来て遥佳の価値は上がった。長瀬の出現が遥佳を西沢へと走らせ、西沢と距離が近寄ったことが遥佳をふたたび艶気つやけのある女にした。今の遥佳なら奪ってでもものにしたいと安野は思うようになったのだ。

「それで、やっぱり西沢は君に指一本触れないんだ」

 遥佳がなかなかそういうことを口にしないので、安野の方から質問することになる。

「そうね――彼、すごく真面目だから」

 遥佳はそれを西沢の真面目さによるものだと思うことでかろうじて心の平安を保っているようだった。しかしそれを安野は意地悪く壊していかなければならない。

「しかし女性を大事にすることと、指一本触れないことは別物だと思うけどな。セックスをしないまでも、肩に触れたり手を握ったりすることくらい許されることだと思うし、もし本当に好きな女の子に対してなら触れてみたいと男は思うものだぜ」

「そう――なの?」

 自信なさそうに遥佳は訊く。思っていることを指摘されて困惑している様子がありありと感じられた。

「前にも言ったけれど、ここは君の方から動かないと、そのままいつまでたっても君たちに進展はないと思うよ。俺なら君みたいな子をほっておかないけれどな」

 さりげなく自分の気持ちを入れ、自分の存在を意識させることを安野は忘れなかった。

「君が本当に西沢のことが好きなら、君の方から積極的にアプローチするんだよ。もう長瀬のことはトラウマにもなっていない、今は西沢しかいないという気持ちをストレートに表現するんだな。そうすれば奴の長瀬に対する呪縛も解けて、君と向き合うことができるようになるかもしれない。それでも駄目ならもう西沢のことは諦めた方が良い」

「え!」

「前も言ったと思うけれど、どうしても振り向かないとしたら、それは西沢の方に問題があるんだ。奴が君の中に長瀬の匂いを嗅ぎとっている。長瀬の亡霊を見てしまっている。長瀬の所有物だったと無意識に思っているということだ。そんな奴とつきあえるわけがない」

 電話の向こうの声が聞こえない。茫然自失となっている遥佳の様子を思い浮かべながら安野はつけ加えた。

「いるんだよ、女の子の過去を気にする男って。それが知っている奴、とくに長瀬みたいな嫌いな奴なら余計許せないんだろうな。西沢はやはり潔癖な奴だからな」

 顔をつきあわせていないので、安野は思う存分サディスティックな笑いを浮かべることができた。

 やはり西沢には遥佳を相手にすることは無理なのだ。遥佳はいずれ俺の方になびく、それが運命なのだと安野は密かにわらった。

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