恋文の代筆 (環境工学科二年 長瀬和也)
行動が幼い為自分より年上だなどとは長瀬は思いもしなかったが、近くでその顔や
問題は手紙の中身である。長瀬はラブレターという代物を真剣に書いたことがなかった。今やそういうものは時代錯誤のように扱われているし、長瀬には手紙よりも自分の口の方がはるかに強力な武器だったのでこれまで全く必要でなかったのだ。
しかしそんなことは言っていられない。実際に書いてみて可笑しな文面が出来上がって、何度も書き直したが、ラブレターなど見たこともない野尻は、長瀬に何の異を唱えることもなく、完全に長瀬を信頼しきったような目で、それが出来上がるのを見守った。
かくして恋文第一作ができあがった。
<突然お手紙を差し上げて、さぞ驚かれたことと思います……>
ありきたりな出だしだが、相手の注意をひきつけるには妥当なものだろう。ちなみに手紙の宛名の横には「親展」の文字をつけ、差出人は住所なしの「
自宅へ手紙を出す以上、男の名前では警戒される。彼女の親が見つけたら面倒な展開になるかもしれない。だから女性の名前にするのだと長瀬は野尻に説明した。
野尻はそんなものかといった反応で、特に異議を唱えなかった。
<ぼくは京葉工科大学の学生でNと申します。恥ずかしいのでまだ名前は明かせませんが、男子学生です>
自己紹介はイニシャルで始めることにした。これはある意味手紙作戦がうまくいかなかった時の保険だ。うまく文通ができるようになって、ある程度相手の信頼を得ることができた段階で初めて名を名乗るという方法をとろうと長瀬は提案した。
その背景には、彼女のようなタイプはきっとはじめからこういう手紙を相手にしないだろうという長瀬の見通しがあった。返事が返ってくるなど奇蹟に近い。しかしそれを野尻には話せない。彼はすっかり長瀬を頼っていた。長瀬の提案をおかしいと思うほど野尻には人を見る目がなかったのだ。
<調子が悪くてつらそうに医務室へ通う君の姿を何度も見て、ぼくはたまらなくなりました。いつもひとりでつらさに耐える君の姿は本当にいたいたしい。どうにかして代わってあげられないかと考えたこともあります>
まずは影で彼女を見守る純情な男子学生の登場だ。しかしこの部分はあながち嘘偽りというものでもない。野尻は本当にそう感じていたかもしれない。その証拠にこの歯の浮くような文に野尻は何のけちもつけなかった。
<きっと君は、友人に悩みを打ち明けたり、相談したりすることができない人なんですね。友人に迷惑をかけることを恥ずかしいと感じてしまうのでしょう。だからどんなに体調がすぐれなくても、人前では大丈夫であるかのように装い、ひとり静かに医務室へ休みに行くのだと思います。しかしそれでは何の解決にもならないのではないでしょうか>
どうも今風の若者の文体ではないと思いつつ、長瀬は書き続けた。この文体の方がより誠実さが出ているようにも思えたからだ。
<君がどうしてそれほどまでに体調を崩すのか。正直なところ、遠くから見守るだけのぼくにはよくわかりません。しかし君の支えになりたいというぼくの気持ちは本当です。君の悩みや悲しみを一緒に分かち合い、それらを共有することができたらどれほど良いかと思います。きっと何か解決策があるはずです>
ちょっとくどい感じもするが、なめらかに進まない文章の方がかえって純朴な印象を与えるのではないかと長瀬は野尻に語った。
<また近いうちに連絡をします。君を影ながら応援し、力になりたいと思っているNより>
第一回目の手紙には、彼女からこちらへ連絡する方法を記さないことにした。いずれ携帯のメールアドレスなどをのせて、そこに連絡を入れてもらうよう伝えるつもりだが、最初は影の応援者という立場を貫こうと考えた、と長瀬は説明した。
これに対して彼女がどういう反応を示すか、長瀬は内心彼女は全く反応を示さず無視する確率が高いと考えていた。それが妥当な反応というものだ。
しかしそのことはおくびにも出さず、野尻には最初の布石というべきものと説明した。そしてすぐに結果を求めてはいけない。まずは彼女の信頼を勝ち得ることが先決だと強調した。
彼女のあとを追う行為はなるべく控えた方が良いと長瀬は野尻に言ったが、もとよりそれが容易なら苦労はしないはずだ。
野尻は東瀬麻美の様子を窺うために今後もあとを追うだろう。しかし、お前の行為はストーカーのようだと言った長瀬のことばを野尻はそれなりに理解しているから、以前ほど露骨な尾行はしないはずだと長瀬は考えた。
これは一種のゲームだと長瀬は思った。生きているシナリオ。自分が思い描いた構成通りにことが運ぶかどうか。あるいは予期せぬエピソードが生まれて作家自身も読めない展開に発展していくか。楽しみに長瀬は心が震えた。
とりあえずキャストだけは決まった。シラノ(長瀬)、クリスチャン(野尻)、ロクサーヌ(東瀬麻美)。最後にロクサーヌがシラノのところへ心を開けば完璧だと長瀬は興奮した。
野尻とはメルアドを交換し、携帯メールで連絡をとりあうことになった。こうすれば大学内でわざわざ顔を合わす必要はない。
もともと野尻は殆ど言葉が出てこない男なので、会って話し合う意味もなかった。文字の方がずっと自分の意思を伝えやすいし、長瀬にとっても都合が良かった。一日一回程度連絡をとり合えばよいのだ。
そういうわけで数日がたった。あの手紙は東瀬麻美のところに届いているはずだが、彼女が何か動き出す気配はなかった。もちろん手紙の返事を書こうにも宛名を教えていないのだから送りようがない。野尻も、そして長瀬も彼女をそっと観察していたが、毎日大学へは来ているようだし、医務室への訪室頻度も以前とさほど変化がないようだった。
そろそろというタイミングで、長瀬は第二の手紙を彼女に送りつけることを野尻に提案した。
<前略>
こういう手紙を書くのは初めてだったが、書いているうちに徐々にその楽しさがわかってくるようだと長瀬は感じた。「前略」などという単語を使うのも初めてだ。しかしその響きは良い。
<またお手紙を書いてしまいました。君が医務室へ体を休みに行く様子を見るにつけ、ぼくはとてもせつない気持ちに陥ります。とくにこのところ君はお友達と一緒にいることもめっきり少なくなり、孤独の沼に足を取られて沈んでいくイメージがぼくの脳裡に浮かんでくるのです。このままではいけないと思います。どうかぼくに相談してください。ひとりで考え込まないでふたりで一緒に考えるのです。悩みを分かち合えば、何か良い解決策が見つかるかもしれません。どうかぼくを信じてください>
つきなみな表現で、今ひとつ説得力に欠けるかなと長瀬は思った。あるいは何をひとりで勘違いしたことを言っているのだと思うかもしれない。しかしまずは真面目一本調子で押す。野尻の粘り強い性格を考えればそれが一番だと思った。
自分は野尻と麻美がうまく行くことを望んでいるのかと自分に問いかけたりすることもある。いやそうではないだろう。この二人がうまくいくことなどありはしないのだ。だからこそ面白いのではないかと長瀬は
<もし相談したいと思うようになったら、こちらへメール下さい>
麻美との連絡をとりやすくするために新しくパソコンのメールアドレスを作った。パソコンでのやりとりの方が、野尻も長瀬も、両方が見ることができる。もちろんこちらから送るときは長瀬が内容を考え作成するのだ。野尻はそれに対して同意するだけだった。
まだ名前は明かす段階ではない。依然としてNと名乗っている。もう少し待って彼女から連絡がくるようになればいずれ野尻の名を明かすこともあるかもしれない。
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