熊男との接触 (環境工学科二年 長瀬和也)

 男子学生に興味を持ったのは初めてだと長瀬和也ながせかずやは思った。もう女には興味をもてない、というわけでもなかろうが。

 しかし一見理解できないように見える男たちの行動に何か納得できる動機を見つけ出すことはとても面白いものだと長瀬は考えた。だからこそあの熊のような男を探したのだった。

 探し方は簡単だ。東瀬麻美あずせまみをマークしていれば良い。熊男くまおとこは彼女にゾッコンなのだった。

 人知れず麻美をマークすることは、彼女を探し出すことよりも難しかった。何より彼女は人ごみに紛れない。これでは尾行などという芸当は不可能に近かった。だからこそ熊男が彼女を追っていることに長瀬は気づいたのだったが。

 しかし幸いにして長瀬は他の学生たちから疎まれる存在だったから、キャンパス内を歩いていても呼び止められることはなかったし、留年でスケジュールが緩いこともあって講義のある人気ひとけの少ない時間帯にうろうろしても咎める者はなかった。

 かくして長瀬は東瀬麻美が医務室へ休憩に入る姿を確認すると、そのおよそ一時間後に出てくることを知っていたので、その後の彼女を追えばよかった。そして思ったとおり、休憩を終えて出てきた彼女のあとを大柄な体格にしてはそっと追う形で熊男が尾行を開始するのを発見した。思い立ってから一週間もたたない時期だった。

 熊男はもどかしいくらい彼女に対して何もできず、十メートルから時には二十メートル以上の距離をあけて、ただゆっくりとその後をつけるだけだった。もちろん声をかけるということすらできない。

 それでいったい彼女をどうしたいのか。そうしたことが全く見えてこない。声をかければ彼女に驚かれて逃げられるに決まっている。それは熊男自身もわかっているに違いない。しかしだからといって諦めることもなくただ後を追うだけでは何の進展もないのだ。あるいは彼女が振り返り、奇蹟的な思いやりを発揮して熊男に声をかけることを期待しているというわけでもなかろうに。

 そうして彼女が建築学科の校舎の中に姿を消すと、溜息でもついているかのように肩を落として立ち止まり、そしてゆっくりと向きを変え、来た道を戻るパターンを繰り返すのだった。

 三度ほどそうした光景を見て、完全に行動パターンを把握した長瀬は、熊男に声をかけてみることを思い立った。

 彼が応用化学科の学生であることは尾行した結果わかっている。応用化学科まで出向いて彼を探すこともできたが、長瀬はある意味効果的な邂逅を狙って東瀬麻美を名残惜しげに見送る熊男の背中に声をかけることにした。

 その日も東瀬麻美が建築学科の校舎に消えた直後、長瀬は静かに熊男に歩み寄った。

「お前」と長瀬は熊男が振り向いて自分を見るまでゆっくりと待ってから言葉を続けた。「あの子が好きなのか?」

 突如として現れた長身の男に熊男は驚きと訝る表情を見せた。しかしその口から言葉が出ることはなかった。

「知っているよ、いつも彼女の後をつけているんだろ?」

 熊男は黙って長瀬の目を睨んだ。まさにそれは野生の動物のような威嚇の構えだった。

「安心しろ、俺は別にお前の邪魔をしに来たんじゃない。場合によっては協力してやっても良いと思っているんだ」

 まずはそういうことで手なずけることができないかと考えたが、それにのる様子は見られなかった。

「俺のこと知っているか?」

 長瀬はアプローチの仕方を変えてみた。初めて熊男は、首を横に振るという反応を見せた。完全に相手を無視するという態度でもなかったようだ。

「そうか、学科も違うし、俺は休学していたからな、この四月から再登校しているんだ。留年して今は環境工学科の二年だ。長瀬という」

 熊男はやや首を傾げるような仕草をしたように見えた。勝手に自己紹介を始める男を不思議に思っているような態度だった。しかも相変わらず一言も発しない。

「俺が何で休学していたか知っているか?」

 熊男はまたも首を振った。その目には少しは長瀬に興味を持ち始めたようなかすかな光が宿っていた。

「俺には大学内につきあっていた彼女がいた。しかしどうしたことか気持ちのすれ違いを起こしてしまって、彼女が俺から逃げたんだ。俺は彼女を逃がしたくなかったばかりに、俺の言うことも聞いて欲しいと思ったばかりに、ちょっと度が過ぎて彼女を追い回した。するとどうだ。ストーカー扱いさ。学生課の職員がしゃしゃり出てくる、学科の学生たちが白い目で俺を見る。とうとう俺は休学せざるを得ない状況に追い込まれた。俺が何を言いたいか、わかるか?」

 熊男は、馬鹿の一つ覚えみたいに首を横に振る動作を繰り返した。

「お前が彼女のあとを追うという行為がストーカーになっちまうんだよ」

 熊男はようやく長瀬のいうことを少し飲み込んだようだった。口が少し開く。しかし声はやはり出なかった。

「そのうち彼女も気づくだろう。そして気味の悪い大男が自分にしつこく付きまとうことに耐えかね、大学に相談する。その結果、お前はストーカーにされちまうんだよ」

 熊男は視線を下へ逸らした。やはり少なからずショックを受けているようだ。長瀬のことばを熊男なりに解釈して、自分の行為の愚かさを悟ったのかもしれないと長瀬は考えた。

「だから悪いことは言わない。今みたいにそっと後を追うだけのことを続けるのはやめろ。本気で好きなら好きと言えば良いじゃないか。それでふられたらその時は男らしく諦めるんだ」

 長瀬の辞書に諦めるという言葉はない。狙った女が手の届く範囲にいる場合はどんなことをしてでも手に入れてきた。にもかかわらず他人には男らしく諦めることを勧める。その違いを長瀬は認めていたが、口がでまかせを言うことまで抑えることはできなかった。

「な、お前も男なら、彼女に言ってみろよ。それともあれか、お前、口が利けないのか?」

 あまりに何も言葉を発しないので、長瀬はそう訊ねた。

「うう」

 熊男は肯定とも否定ともとれない返事をした。どうやら声は出るようだ。しかし言葉にはなっていない。

「俺の言っていること、わかるよな? わかったら手をあげてみてくれ」

 言われて熊男は右手をゆっくりとあげた。

「話はできるか?」

 熊男は困ったように動かない。

「上手く喋れないのなら手をあげてくれ」

 右手がまたゆっくりと上がった。

「そうか、そうなのか」

 長瀬は嘆息をついた。

 医務室に出入りしているといろいろな学生がいることがわかる。柴田のようにひとりで喋って周囲から無視される奴。美人の大学職員に熱を上げて勝手に追いまわし、人が大勢いるところでも平気で告白する奴。だから喋れない奴がいても不思議ではないと長瀬は思った。

「それじゃ、愛の告白は苦しいな……」

 長瀬の言葉に熊男は肩を落とした。

「しかし、まあ、少しくらい上手く喋れなくたって、女の子を好きになってはいけないなんて法律はない。喋るだけがコミュニケーションの手段じゃないはずだ。そうそう、お前だって大学で講義を受けるときは何らかの方法で相手とコミュニケーションをとっているだろう? 筆談とかできるじゃないか。携帯とか持っているのか」

 熊男は肯いた。

「じゃあ、そういうのを使ってやりとりすればいい。お前みたいなシャイなタイプはメールなんかの方がうまく自分のことが伝えられるかもしれないな。しかしそのためには彼女のメルアドを知る必要があるな」

 いつしか熊男は長瀬の話に耳を傾けていた。はじめのうちの胡散臭そうな奴を見る目から、すっかり素直な目になっている。案外純朴で単純な性格なのかもしれないと長瀬は思った。

「そうだ、まずは手紙を書いてみてはどうだ。彼女の自宅の住所ならメルアドを手に入れるより簡単に入手できるかもしれない。俺の知り合いに建築学科の奴がいるから何らかの方法で名簿なんかが手に入れられるかもしれないぞ」

 個人情報保護法の関係で、学生たちに名簿が配られることはなくなっているとはいうものの、やはり何かと不便だという理由で、学生が自主的に名簿を作成することがある。彼女のクラスがもしそうなら入手できないことはなかった。

「ところで、お前、彼女に手紙かけるか?」

「か、け、な、い」

 初めて言葉らしきものを発したと長瀬は驚いた。全くの失語というのではないようだ。

「女の子にラブレターとか書いたことないよな」

 熊男は肯く。

「しようがない、俺が人肌脱いでやるよ。俺もラブレター書くのは苦手だが、お前と二人で一緒に考えれば何とか書けるだろう」

 熊男は不思議なものを見るような目をした後、こっくりと頷いた。

 やれやれ、とんだシラノ・ド・ベルジュラックだと長瀬は思った。

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