東瀬麻美に対する考察② (保健師 安積佑子)
彼女を寝かせると、
医務室のカルテは病院のものとは違い、学生にかかわったすべての職種が記録に携わっていた。そこには佑子自身が書いた記録もある。
しかし参考になる情報はたいてい相談員の
東瀬麻美の友人としてクラスメイトの名が二人実名で記されていた。佑子らにはなかなかそういうことは言わないが、さすがに校医の先生相手では聞かれたことは答えるしかなかったのだろう。
「いずれこの子達にも話を聞いてみよう」と佑子は沙希に囁いた。
東瀬麻美のプロフィールを再度確認する。両親と三歳の妹との四人家族。妹とはかなり年が離れているが姉妹とも同じ両親の子だとわざわざ書かれていた。このあたりは輪島五月のこだわりか。何か気になったことは必ず確認するのだ。
自宅は京成沿線の青砥にあるようだった。都内にある三田女子学院をこの春卒業。ちなみに友人二人のうちの一人が同じ高校の出身である。
三田女子学院高校は、叡智大や明鏡大に数名の合格者を送り出す中堅の進学校で、髪型や制服のチェックを行うなど校則の厳しい女子校だというイメージが佑子にはあった。しかも英語教育に力をいれ、どちらかというと文系の大学への進学実績があると聞いている。
麻美のようなひ弱なタイプが通っていたとは信じられない。それともこの京葉工科大学に入学してから愁訴が増えたのだろうか。
ちなみにカルテには入試の成績も参考資料として貼付することがあり、麻美の場合もそれがなされていた。なかなか良い成績である。少なくともこの医務室の常連でこれほど良い成績で入ってきたものは
東瀬麻美はこの大学以外に明鏡大の薬学部、東都女子大の理科類、叡智大の理工などを受けたらしいがすべて不合格だったと記されていた。彼女の場合どうも英語に難点があったようだ。数学と物理、化学に関しては抜群ともいえる成績を残している。やはり文系の科目が苦手だったと考えるべきかもしれない。
というわけで、東瀬麻美にしてみれば不本意な入学だったのかもしれない。いかに建築学科がこの大学の中では情報工学科と並んで優秀とはいえ、彼女が目指してきた大学とは歴然としたレベルの差があったはずだ。そこで何らかの挫折、屈折が彼女の身に起こったとしても不思議ではないだろう。それはある意味、長瀬和也に通じるところがあると佑子は思った。
入学して早々、彼女は相当なカルチャーショックを受けたらしい。まずは男子学生に圧倒されたと輪島五月に語っている。
男子の割合が多いことはある程度覚悟してはいたが、まさかこれほど空気が汚れ、むさ苦しく、呼吸困難を引き起こすとは夢にも思わなかったという。麻美はこれまで異性との交際経験はない。
輪島五月のまとめるプロフィール欄には必ずといっていいほど異性との交際経験について触れられている。あまり関係ないだろうというケースであっても書かれていることがあり、それを輪島五月のこだわりだと言ってしまえばそれまでだが、人の行動様式は過去の積み重ねであり、中でも恋愛経験は家族との繋がりに匹敵するくらい重要な要因であるというのが輪島の持論だった。
こうした個人情報が事細かに記載されているので、学生のカルテは常に気を遣って管理している。ふだんは鍵のかかった金庫のようなカルテ庫に保管しているし、女子学生のカルテは菅谷にさえ自由にみせてはいない。また内科系の校医に診察させるときも、輪島の記録だけ取り除いたカルテを医師に渡すことすらあった。
というわけで男子学生に免疫がなかった東瀬麻美は、夢も希望もなくただふわふわと何となく生きているというスタイルを隠しもしない男子学生たちが持つどんよりとした空気に飲み込まれ、息が詰まるようになったという。
それでも建築学科は比較的華やかで洗練された学生が多いので授業中はどうにか我慢ができていた。問題は昼休みや登下校の時間だった。
キャンパス内のいたるところにやる気のないひとりぼっちの男たちがいる。仲間とつるんで騒いでいる学生たちは女と見ると目をぎらぎらさせるだけで、その視線を感じると吐き気を催すようになった。
次第に麻美はだらだらと大勢の学生たちが歩いている登下校の時間帯を避けるようになり、昼休みはなるべくクラスメイトの女子と行動をともにし、苦しくなったら医務室のベッドで休むようになっていった。
愁訴は頭痛、吐き気、めまい、貧血のような発作、そして動悸、呼吸困難であった。時に過呼吸発作を起こすこともあるようだ。それについてはもともと血圧の低い体質に、睡眠不足、疲労、ストレスがからまって自律神経を失調させているというのが輪島五月の見解だった。他の校医の診察、といってもまだ
メンタルについては見たとおりの印象に大きな間違いはないが、中身については何かと考察されている。今風のファッションを取り入れた意外に派手な身なりについて本人は、校則が厳しかった高校時代の反動という面は否定しないものの、単純におしゃれをしたいという欲求があることと、街角を歩いている女の子たちと同じようなスタイルをしていればかえって目立たず安心感があると答えた。
また必ずどこかにダサい部分があるアンバランスさが自分らしいとも、照れたように言っている。ひとつひとつのことに何かそれなりの理由があるようだった。
今後どうしていきたいかという輪島五月の問いに、まだ何もわからないと答えている。本当は浪人をしてでも都内の総合大学へ行きたかったようだ。しかし小さな妹もいるし、両親にあまり負担をかけてはいけないと思い、我慢するつもりでこの大学に通うことを決めた。後悔しているが、だからといって来年大学を受けなおすという選択肢は全く考えられないそうだ。
どうすれば良いのか誰にもわからない。
「やっぱり彼氏、ですよ」
沙希が無頓着に言い放った。単純な発想だが、それくらいしか逆転ホームランに匹敵するものはなさそうだった。
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