東瀬麻美に対する考察① (保健師 安積佑子)
もうすぐゴールデンウィークを迎える。大学はカレンダー通りに休みがあるから、
プライベートはともかく、三年目の佑子にとってこの時期は別の意味で注意を要する時期だった。かつてさんざんもてはやされた「五月病」は未だに死語にはなっていない。
この時期には二流大学に進学した自分を貶める新入生が多数出現する。新入生ばかりではない。もう何度もこの時期をクリアしているはずの上級生であってもその影響は顕著となって現れることがあるのだった。
就職難から研究生にならざるを得なかった学生も多い。早くも就職活動を余儀なくさせられる三年生も哀れな被害者だ。そしてまだ内定も得られない四年生は学生課に対して不信感を抱くようになっていた。大学は何もしてくれない。ことあるごとに彼らはそう口にした。
彼らはあらゆる面において誰かに依存しすぎていると佑子は思う。これならまだ自分の娘たちの方がたくましい。憎まれ口を叩いたり、時には「クソばばあ!」などという乱暴なことを言ったりするが、自分のことは自分で責任をもってしているのだ。
しかしこの大学の学生を見ていると、特に医務室に頻繁に出入りする学生を観察していると、社会に出て生きていこうという意識が全く欠落していると思われるのだ。そしてその要因の一つとして
それは理工系だからといって簡単にすませるレベルではなかった。口下手どころか全く喋れない学生もいる。あるいは他人と話をしようという意識が欠落している学生もいる。また相手の話に耳を傾けずひたすら自分の主張だけを執拗に繰り返す学生もいる。どうして日本の学生はこうなってしまったのかと嘆きたくなるほどだった。
佑子の手の届くところにある棚には、いつ来室しても対応できるように常連の学生たちのカルテが格納されていた。
奇異な行動をとり、空気が読めず、クラスメイトから仲間はずれにされる学生たち。失語症のように言葉を発することを忘れてしまった学生たち。常に何らかの不定愁訴を訴え、カウンセリングか薬をもらうことで安心する学生たち。そして暴力や問題行動を起こすもの。
とはいえ彼らが自ら医務室を訪れるのは何らかの愁訴があるときだ。問題を起こす典型でもある
佑子は、最近あまり来なくなった物言わない学生たちのことも気になったが、今最も気がかりなのは
彼女は週に三度は体調不良で現れる。そしてベッドで休んでいく。
ベッドを利用する学生は他にもたくさんいるが、その多くはバイトをしていて寝ていないなどちょっと感心しない程度のものだ。
しかし東瀬麻美はすでにどう対処すべきか悩むところにまで来ている。特に最近は友人が同伴することも少なくなり、とうとう孤立してしまっているのではないかとさえ感じられるのだ。
このまま放置しておくと休学や退学も考えられると佑子は心配した。クラスメイトにも声をかけて話を聞いておく必要があるのではないかとも思うのだった。
他人の視線が怖いという彼女の訴えは、このところ誰かに追われているようだという妄想紛いのものになっている。
それについて佑子は輪島五月にも報告したし、美幌愛にも相談した。いつも一緒にいる
彼女をつけまわす男は本当にいるのか、という問題を本気で考察したこともあった。「大きな男」と彼女が最初に口にしたとき、ちょうど長瀬和也が登校を再開した時期でもあったので、当然のように彼がそれにあたるのかという検討もなされた。
しかし長瀬の報告から「熊のような大柄な男」という存在もあがっている。長瀬がそういうのなら麻美の妄想という話ではなくなってくるのだ。実際にストーカーのような人間がいるかもしれない。もしそうなら何か手を打たなければならないのではないか。
「東瀬さん、あの通り可愛いですからね」と沙希はしみじみと言った。当然ストーカーがいてもおかしくないと言いたげな様子だ。
「だったら、もっと誰か友達と一緒に行動するとか考えた方がいいわ。あの子、ひとりで動くことが多くなっている」と佑子は心配した。
授業中に抜け出して医務室に休みに来ることが多くなり、一時間という決められた安静時間をフルに使うと、下校もひとりになったりしてしまう。先日は誰かに追われているという訴えがあったので、輪島五月と藤田沙希が一緒になって帰ったりしたが、そういうことが何度もできるわけがない。
「学内に彼氏がいるといいんですけどね」沙希は提案するように言った。
「いるのかしら?」
「いないでしょう、やっぱり。何だか男性恐怖症のような気がします。私と同じです」
「もう、冗談を言っている場合じゃないでしょ」
「私の話はさておき、彼女の場合、この大学を選択したのは失敗でしたね。
それはまるで自分も同じだと言っているようにも聞こえた。
「あなたも病院の方が良かったのかもね」と佑子が言うと、「とんでもない、私ここが気に入っています、大好きです」と逆説的なことを言った。顔も笑っているし、なかなか正体がつかめない子だと思った。
噂をすれば影というわけでもないのだろうが、東瀬麻美が来室したのが沙希とそういうことを話していたときだった。
「調子が悪いの?」と佑子は聞いた。思わず枕詞に「また」というのをつけそうになる。しかしそれが禁句であることを佑子は長年の経験から頭に叩き込んでいた。
「はい、頭痛がするので休ませてください」
麻美は消え入りそうな小さな声で答えた。
確かに顔色は蒼いがふだんとそれほど変わりはないように思われる。水色のパーカに同系色のボーダー柄のチュニック、その下に少し白のミニスカートを見せて、脚は黒タイツにまとめている。そしてスニーカー。いかにも今風の女の子の装いだった。
これが繊細で今にも壊れそうな彼女のキャラとはマッチしない。男に怯えているのだとしたらどうしてこういうスタイルができるのか。
「大丈夫なの? 授業とかあまり出られないのじゃないの?」
佑子は心配そうに訊ねた。
「どうにか毎日来ています」
「おうちはご両親と一緒に住んでいるのよね?」
「はい」
返事はするが、体はもう安静用のベッドへ向かっている。脇にある籠に、肩に下げていたディパックを下ろした。
「おうちの方には相談しているの?」
「いえ、あまり心配かけたくないので……」
その口ぶりだと親には知らせていないようだ。自宅に引きこもっているのでない限り、親は気づかないかもしれない。
「病院へ言ったりして薬の処方を受けているの?」
「行ってないです」
輪島五月には、心療内科を受診して何か薬の処方を受けてもよいかもしれないと言われていた。頭痛がひどい時の頓服と、眠れない時の眠剤などのことを言っていたようだ。だがそれも本人にその気がないのだから無理なのだろう。受診するとなると親にも言わなければならない。
「最近は誰かにつけられたりしているの?」
ベッドに横になった麻美にふとんをかけながら佑子は訊ねた。
「わかりません、みんな同じ顔に見えるんです。だからずっと追われているように感じます」
案外この子は周囲の人間の顔をまともに見ていないのかもしれないと佑子は思った。となると特定の人間に尾行されているという話も疑問符がつく。
「じゃあ、今から一時間ね」
佑子は決められたルールを伝えた。
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