初デート (環境工学科三年 西沢春樹)

 日曜日、春樹はるき遥佳はるかは朝早くから東武線を使って日光へ行った。

 二人ともペーパードライバーだったし、車を出すこともできず、かと言ってあまり近場だとどこに知り合いの目があるかわからないので、少し遠出をするのが良いという結論に達したのだった。浅草から特急を利用すると日帰りで十分日光まで行くことができるのだ。

 もちろん二人とも実家に両親家族と住んでいるので、泊りがけでどこかへ旅行するという選択肢は難しい。ましてや初デートを泊りがけにするという提案をするほど春樹に勇気はなかった。

 そんな話を出せば遥佳は瞬時に口を閉ざし殻にこもるだろう。それほど今の遥佳は繊細なのだと春樹は思っていた。

 だから並んで歩く時も二人の間には微妙な空間があった。半人分くらいの空間が。うっかり手を触れようものなら高電圧の電気に触れてしまう。春樹はそう肝に銘じ、遥佳と観光を楽しんだ。

 移動はバスかタクシーである。金がかかるが、これまでこつこつと貯めてきたアルバイトの費用を惜しげもなくはたき出す心積もりが春樹にはあった。もちろん遥佳は割り勘派を譲らない。こうしたことでお互いに相手を思いやる気持ちを推し量った。

 一昨日の金曜日に春樹は安野康司やすのこうじに呼び止められていた。彼は春樹と遥佳がつきあい始めた事を知っていた。正確にはまだつき合っているというほどの状況ではないのだがと春樹は認識しているが、それをつきあっているというのだよと安野は言ってくれた。

 安野が二人の仲を知ったのは、遥佳に鎌をかけたことがきっかけであり、決して遥佳の口が軽くて洩れたことではないと安野は強調した。

「北見は、まだどうなるかわからないから内緒にしておいて、と言っていたよ。だからお前たちのことを知っているのは俺だけだろうな」

 安野が知っていることは驚きだったが、他には知られていないという事実は春樹をすっかり安心させた。しかし一方で、「まだどうなるかわからないから」という遥佳の台詞らしき部分が気になった。これから進展していくかどうかわからないという意味なのだろうが、進展するかどうかは自分にかかっているのだろうか。

「そりゃ、お前次第さ」

 安野は春樹の心を読んだかのように言った。これから二人の間で愛が育まれていくかどうかはすべて春樹次第であると安野は強調した。

「北見は」と安野は力説するように語った。「長瀬のことをすっかり吹っ切ったような態度をとっているかもしれないが、実はまだ奴のことを完全には整理できていない。北見はまだ心のどこかで男を恐れている。その証拠に、この俺がちょっとした仲間意識で北見の手に触れたりすると、それが単なるスキンシップだったとしても、突然電撃に打たれたようにびくっとした反応を示すんだ」

 そんなことをするのかと春樹は安野を見た。

 安野は春樹と違って女性の扱いに長けている、実際幾人もの相手とつきあってきたという話だ。クラスで一番の美人の名手美奈子も一時は安野と付き合っていたほどだ。その安野が女性の腰や肩に触れたりするのは単なるスキンシップの一つに過ぎないのだろう。しかし遥佳にとってはそうではないのだと春樹は理解した。

「北見がお前に惹かれたのは、お前が礼節をわきまえた男だと思ったからだろう。むやみやたらと女性の体に触れたりしない。だからこそお前は選ばれたのだと思うよ」

 手を出さないから選ばれたとしたら少し悲しい気がする。何だか男として認められていないみたいだと春樹は思った。しかし事実春樹には遥佳に手を触れる勇気はなかった。

「いいか、思いが募って、恋に迷っても、むやみやたらと北見に触れるんじゃないぞ。そんなことをしたら彼女はたちまちもとの固い殻に閉じこもってしまうだろう」

 安野の忠告はもっともだと春樹も思う。自分の特性は安心感だと思われる。心と心のつきあい、今はただ遥佳はそれを求めているのだ。遥佳の自分に対する信頼を強固なものにするためにも、このプラトニックな間柄は当分の間維持されなければならないと春樹は考えた。

 だからどんなに欲が高じても、絶対に手一つ触れてはならない。春樹はそう決意した。

「天気が良くてよかったね、少し暑いくらいね」

 ひとり意識の流れに身を任せていた春樹を、遥佳のひとことが呼び戻した。

「風が気持ちいい」

 ときおり強く吹く風が、歩き続けて汗ばみはじめていた肌に当たって心地よかった。

 パステルカラーの小花柄のワンピースがふんわりと膨らみ、遥佳の膝やふとももの一部が露出する。ベージュのカーディガンといい、白っぽいストッキングといい、そして唇に差した赤いルージュといい、いつもの遥佳とは違うフェミニンで、春樹にとっては挑発的なスタイルだった。

「女はときに逆説的な行動をとる」と安野の力説を春樹はまたも思い出した。「触れて欲しくないと思いながら、逆説的に触れてしまいたいと思わせる挑発をすることがある。それに惑わされてはいけない。彼女たちは試しているんだ。ついうっかり手を出そうものなら、男の本性を知ったとばかりに彼女たちは身を翻してしまうだろう」

 自分は遥佳に試されているのか? すでに春樹は混乱していた。

 素直に受け取ればデートのためにおしゃれをしてきて、相手の男性を喜ばせるために少し色気のあるシチュエーションを作っているように見える。

 思わず抱きしめたくなるくらい遥佳は綺麗になっていた。まるで夢のような容姿だ。これが自分を試すための挑発だとしたら、本当に女は怖い生き物だと春樹は思う。

 連休前の日曜日だったが、日光東照宮はかなりの人ごみだった。その中を着かず離れずといった感じで、微妙な空間を間に挟んで二人は歩いた。

 手を繋ぎたいと思いつつも、春樹はどうしてもそれができなかった。

 もし遥佳の手に触れて、それがきっかけで彼女の中に男に対する恐怖が蘇り、春樹をはねつけてしまったとしたら取り返しがつかない気がするのだ。

 春樹はただただ自重した。途中何度か通りがかりの観光客にカメラのシャッターを押してもらったが、並んだ春樹と遥佳は肩を組み合うこともなく手を繋ぎあうこともなく、わずかな隙間をあけて写った。それが見ず知らずの者にはどのように見えたか。

 しかしそういう心の葛藤があったとはいえ、それを上回って余りあるほど遥佳とのデートは春樹を幸福にした。当分はこういう形でも良いのではないかとさえ思えてくる。まだ二人には十分時間が残されているのだ。誰も二人の仲を裂こうとはしない。ゆっくりと時間をかけ恋を成就させていけばよいのだと春樹は思った。

 日帰りで見回るにはあまりにもゆとりがなかった。まさにあっという間という感覚で、二人は観光を追え、帰りの特急に乗り込んだ。

 しかし心地よい疲労が二人を襲い、いつしか二人はシートに身を任せたまま眠りについた。

 途中目が覚めた春樹は、自分の肩に遥佳の頭が寄りかかっていることに気づいた。

 ほんのりと良い匂いがする。身近な女性の香りを嗅いだのは初めてだった。それにしても遥佳の匂いは良い香りだった。

 これも挑発あるいは試練なのか。いや違うだろう。少なくとも遥佳のあどけない寝顔を見る限り、そこに計算された意思は認められなかった。春樹は初めて幸せを感じた。

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