わずかな変化に気づく男 (環境工学科三年 安野康司)
その日の物理の実験で、
物理や化学の実験は二人一組で行うことが多い。組み合わせは講座の教官がランダムに決めているようだった。
男が八割以上を占めるこの大学で、女子学生とペアになることはかなり少ない。ましてや今、安野が密かにアプローチを試みようと決意した相手と組むことになるとは偶然にしてはできすぎていると思われた。
西沢がもたもたしているようなら、自分が遥佳の気を惹いてやる。自分には女性に遠慮なく声をかける度胸が十分すぎるほどあると安野は自負していた。
「最近調子が良さそうだな」
安野は実験中でも平気で私語を出すことができた。少々隣にいる奴に聞かれたって構わない。どうせ聞かぬふりをする朴念仁ばかりだ。
「そうお? うん、そうかもしれない」
遥佳は意外にも否定しなかった。ふだんだったら「そんなことないわよ」とかいって手を振ることが多いのだ。クラスでは優等生としてのキャラが確立していた遥佳だが、謙遜の所作は常に見受けられた。
「なんだよ、何かいいことあったか?」
安野は努めて平然と訊いた。しかし心の中ではこの反応は少しおかしいと思い始めていた。
「ううん、何でもない。春の陽気で頭がいかれたかしら」
「もうすぐ五月だぜ、春ってことはないだろ」
「そうね」
話は軽く弾むが、少し噛み合っていないことを安野は認識した。
「じゃあ、天気も良いことだし、今度の日曜にどこかへ行かないか?」
「ごめん、その日は予定があるの。それに、安野君とどこかへ行くってこと、私考えられないわ」
顔は本当に申し訳ないような苦渋の表情だったが、はっきりと断られた。
「だよなー。悪かった、悪かった」
一応軽く返事をする。まだ男とは出かけられないということか、いや俺とは行けないとはっきりと答えたぞ、と安野は落胆した。
何だかおかしな雰囲気だった。もしや別の誰か男と約束しているのか。安野は鼻を利かせた。
しかしこれまでの経緯から遥佳が男とどこかへ出かけることができるようになったとは俄かには考えられなかった。そういう人物がいるとしたら唯一考えられるのはやはり西沢春樹だった。
まさか西沢が……
あの奥手な男が遥佳を誘ったとは考えられない。
ましてや彼は今、柴田のお守りで忙しい身だ。柴田をまいて遥佳に接触をはかることすら困難なはずだった。では遥佳の方が西沢に歩み寄ったのか。それも安野には信じられなかった。
勇を鼓して安野は鎌をかけた。
「西沢と約束したのか?」
他の誰かに聞こえぬようそっと遥佳の横顔に囁いた。
遥佳は安野の方に顔を向け、しばらくしてから真顔で「うん」と肯いた。
その衝撃的な反応を安野は平然と受け取らなければならなかった。
「そうか、やっと……良かったな」
「ありがと、でもまだどうなるかわからないの、だからみんなには内緒にしておいてね」
クラスに内緒にするということが、遥佳が真剣だということを物語っている。遥佳は西沢との愛を真剣に熟成させようと考えているのだ。
「俺も応援するよ」
安野は心にもないことを口にした。そしてその一方でどうにかこの状況を打破し、逆転する方策がないかと考えをめぐらせた。「まだどうなるかわからない」という遥佳の言葉が、西沢と遥佳の間がまだまだ距離のあるものだということを物語っている。
それに西沢はあまり早い動きができないはずだ。西沢はクラスでは人当たりが良くて、みなから信頼され、代表のような役割を担ってはいるが、こと女性の扱いとなるとからきしだめだった。そういう男が要領よく遥佳をものにすることができるはずがない。
まだ自分にも目があると安野は自ら言い聞かせた。
「何かあったら相談にものるよ。男のことは男の方がわかるというもんさ。西沢とは付き合いが長いし、あいつの行動パターンもよく知っているからな」
「ありがとね」
遥佳はそう言って笑った。そこにはすっかり吹っ切れた安寧の様子が読み取れた。
このままではまずいことになると安野は思った。時間的ゆとりはあるとはいえ、楽観はできない。二人の仲が表ざたになる前に何か手をうたなければならないと安野は思った。
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