女医は語り、保健師は落胆する (保健師 安積佑子)

 医務室が再び静かになったのを見計らって、佑子ゆうこは診察室の輪島五月わじまさつきを訪ねた。沙希さきが興味深そうに後ろに従っている。

「いかがでしたか?」

長瀬ながせ君は特にかわりありません」

「では、東瀬あずせさんの方は?」

「今日も頭痛の訴えがありました。そして貧血とか。血圧が低いのでそのせいでしょう」

「彼女が人につけられていると訴えている件ですが」と佑子は話を始め、長瀬が目撃したというエピソードを輪島五月に話した。

「ああ、そういえばそういう話もありましたね。東瀬さん本人の話によると特定の人間ではなく、不特定多数の視線が気になると言っていましたよ。ですから長瀬君が追っかけているのか、はたまた大柄な男子学生が追っかけているのか、そういったことは私にはわかりませんね。ただ単に彼女の被害妄想と片づけるには時期尚早です」

 結局のところ輪島五月は何もわからないと言っているに等しい。

「そうですか」と佑子は落胆を隠せなかった。

「しかし今の状態が続くのはあまり感心しませんね。これから五月六月と行くにしたがって、彼女はますます大学の中で浮いた存在となっていくでしょう。友達だっていつまでも彼女にばかりかかりつけになったり、つきあったりできないでしょうし」

 それは確かにそうかもしれない。東瀬麻美あずせまみの付き添いで来る友人たちは、だいたいいつも同じ顔ぶれだったが、最近はどちらかというと麻美ひとりで来ることが多くなっている。よほど調子が悪い時でなければ、彼女はひとりで医務室を訪れるようだ。それが友人たちとの距離を開くことにならなければ良いがと佑子は思った。

「でもあの子はまだ良い方かもしれない」と輪島五月は言った。「ここに顔を出すだけでもこちらで把握できるわけだし、この広いキャンパスの中には誰にも知られず孤独になっていく新入生もたくさんいるでしょうね。彼女だけを特別視するのもどうかしら? 結局のところ解決は本人によるところが多いと思います」

 心配はするけれど、結局は突き放す。輪島五月のいつものスタンスだった。

 来る者は拒まない。よく話を聞いて相談にものる。しかし本人にその気がない場合は、あえて何かアクションを起こすということを輪島五月はしなかった。

 それを佑子は少し物足りないと感じるのだが、では何か良い方策があるのかと言われれても佑子の頭に浮かぶものはなかった。

「そんなことより、今日は美幌みほろさんは見えないですね」と輪島五月は話を変えた。

「そうですね、今日は姿を現しませんね、お休みなのかもしれません」

 相談員であってもときどき有休をとることがある。その場合はもう一人の相談員が代理で業務を行うことになっていた。

 美幌が休む時は菅谷すがやが代理だ。逆に菅谷が休みのときは美幌愛みほろあいが代理となる。このシステムは当然のことなのだろうが、いろいろと不備を呼んでいることも確かだった。

 美幌に話を聞いてもらっている東瀬麻美のようなケースでは、菅谷のような男の相談員は向かない。はっきりと拒絶を示すことすらある。その逆もまたしかりだった。若い女性相談員に相談できない男子学生もたくさんいることだろう。だからあまり頻繁に相談員は休暇をとって欲しくないというのが佑子の正直な思いだった。でなければもっとたくさん相談員を置いて欲しいところだ。

「美幌さん自身の体調もあまり良くないようね」

「やはりそうなのですか?」

 美幌の体調は校医が診察していて、佑子たち看護師しかいないときに彼女が看護師に体調不良を訴えることは少なかったので、なかなか美幌愛の体調を捉えることは難しかった。ただその顔色を見たりして判断するしかないのだ。「大丈夫?」と美幌愛に訊ねても、彼女は本当のことを言わなかった。

「仕事が相当ストレスになっている筈だけど、彼女、あまり周囲に言わないタイプですからね」

 美幌愛の周囲といっても、あまり交友範囲が広いとも思えなかった。佑子はふと隣にいる沙希を振り向いた。

「この間の新歓行事には私一緒にいましたけれど、柴田しばた君の観察とかで気をとられていて、あまり彼女と世間話やプライベートなことは話しませんでした」

 佑子の顔を察知して沙希は答えた。

 応用化学科の技術職員の米家聖子よねいえせいこが、よく美幌愛と話をしている姿を見たことがある。確か週に何回か一緒に帰っていたはずだと佑子は思い出した。

「そう」と輪島五月は一旦頷いて「知っているかもしれないけれど、美幌さんも学生時代はどちらかというと東瀬さんのようなタイプで、よくカウンセリングを受けていたという話よ。彼女がカウンセラーになろうと思ったのも、その時カウンセラーに助けてもらったという経験から来ているみたいね。自分なら心に問題を抱える人間の気持ちがわかると思ったのじゃないかしら。でもそういう動機だけで続けていけるほどこの仕事は甘くないのよ。ま、あまり個人情報に触れることは言えないので、これ以上は何も言わないけれど、ときどきは彼女の様子も聞かせてね」

 それだけ淡々と言ってのけたのち、輪島五月はいつものように豹変した。

「さあ、おやつよ、おやつ」

 沙希はにっこりしてコーヒーとお菓子の用意を始め、佑子は呆れてものが言えなかった。

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