狼は周囲をうかがう② (環境工学科二年 長瀬和也)
やがて診察室から女子学生が出てきた。
診察室から出てきた
「はいはい」
和也は答えて、無人の診察室へ入った。スチール椅子に腰掛ける。何となく机の上を見ると、カルテらしきものが置かれていた。
視力が良いのでこの位置からでも書類の字は読める。カルテには女子学生の名前があった。
「東瀬麻美」「あずせまみ」「建築学科一年」「生年月日XX年XX月XX日」「女」
プロフィールはざっとこのようなものだった。カルテの本文は字が細かく、手にとらなければよくわからない。ところどころ専門用語なのか横文字が混じっていた。
ぎっしりと書かれているのは輪島医師の性格を物語っているのだろう。中学の優等生のノートを見ているようだと和也は思った。
すぐにお茶を入れて入ってきた
(建築学科……か)
和也は物思う。これまで建築学科の女の子とつきあったことはなかった。
建築学科には比較的華やかで垢抜けた学生が集まっていて、偏差値が高いこともあって環境工学科の学生を馬鹿にしたような目で見ていると同じクラスの男たちが言っていたっけ、と和也は思い出した。
東瀬麻美がナンパで落とせるわけがない子であることは、誰の目にも明らかだったが、興味の対象外であるはずもない。むしろああいうタイプの女性とはあまり接したことがなかっただけに和也の好奇心はいよいよ募った。
あの熊男を利用して、何か近づく手立てはないかと和也は巧妙に考えた。熊男があからさまにストーキングしてくれると有り難いのだが、と考えもした。
恐れ、誰かに縋ろうとしている女性に手を差し伸べる、それこそ格好のチャンスだ。和也の妄想は尽きなかった。
「はい、お待たせしたわね」
急に輪島医師の声が聞こえ、現実に引き戻される。目の前に腰掛けた輪島医師のいつもの姿があった。
相変わらずセックスアピールを極力抑えた白衣と黒のパンツスタイル。しかし化粧品の香りがかすかに漂い、小さな唇に差されたルージュの色がいつもより濃い気がして、たちまち惹かれる。
いつものようにドアが開かれたまま、面談が始まった。
この一週間も何事もない。週三回の登校日は実験に明け暮れ、それ以外の日中はアルバイトをし、夜にはジムで汗を流すこともある、といった感じだ。我ながら禁欲の日々を続けていると和也は自画自賛した。
遠くで
毎週同じことが繰り返される。しかし徐々に慣れてくると、この日常を利用してその合間を縫って自由に動くことも可能なはずだと思えるようになってきた。
あとは表情から読み取られないようにするだけだと思う。そのためには満たされているのではなく、ほどほどに飢えていることを示す必要があった。沙希と戯れる会話もその布石なのだ。
今日も呆気ないくらい簡単に輪島医師の面談は終了した。時間にしてわずか七分。前回より短くなっていないか?
カルテに何と書いているのだろうと気になったが、どういうわけか和也は自分のカルテが置かれている様子を見た記憶がない。
どこかに隠してあって、本人が不在の時に記録されるようだ。どうせ自分の悪口ばかりかいているのだろう。だから目に付くところにおいて置けないのだ。
輪島医師に追っ払われ、診察室を出る。輪島医師はそのまままたも手を洗いに行った。本当に潔癖症だと思う。手が荒れたりしないのだろうか。
「どうだ、調子は?」と菅谷が明るく声をかけてきた。
「良いです」と端的に答える。それで菅谷は安心したような顔になるのだ。
自分がおとなしくしていれば、ここの連中は安心なのだと和也は思った。当面はこれを続けようとも思う。
東瀬麻美の姿はすでになかった。どこへ行ったと聞くわけにも行かないから興味のないふりをする。
「今の二年生とうまくやっているか?」と菅谷の質問は続いている。
「向こうが避けているみたいですからね、でも実験などはちゃんと協力してやっていますよ。今も手順を割り振って相方がしているところです」
「そうか」などと菅谷が適当な相槌をうっていることはわかっていた。
質問の内容そのものに意味はない。受け答えの様子を観察しているだけなのだろう。菅谷はひとり満足して、医務室を去った。
あまりサボっているわけにもいかないので、二人の看護師に挨拶して医務室を出た。
そろそろ実験結果が出る頃だ。うまくやっているだろうなと相方の手際を少し心配しつつ実験室へ向かった。
その途中顔見知りの学生を三人ばかり見つける。環境工学科の三年だ。その中に
「よう、久し振り」
安野は少し前から和也の姿を認識していたようだが、まさか自分に声がかかるとは思わなかったような顔で、「ああ」とかいった反応を見せた。
和也が歩み寄ると安野は立ち止まり、連れの二人は和也を無視するかのように先へ行った。
「元気そうじゃないか」と安野はとってつけたような愛想のある顔になった。
「そっちもな」と答える。
安野とは一年生の時に
女性に対して積極的あるいは強引にアプローチするところはお互いよく似ていると和也は思っていた。じっと相手の気持ちがこちらに傾くまで待つという
「そういや、この間、遥佳が西沢といるところに出くわしたな、あいつらようやく付き合うようになったのか?」
「さあな」と安野は無愛想だった。「西沢は柴田の相手をするのに忙しいようだからな」
「いつからあいつは男の方に走るようになったんだ?」
「ちげえよ、柴田のお
「柴田って、あの
「そうだよ」
ちょっとおかしな奴、というイメージしかない。そういえば
「まあ、俺の知ったことじゃないからな。遥佳が西沢と付き合おうが、お前と付き合おうが全然関係ないことだ」
安野は、和也のことばにはっとしたような顔をしたが、何も言わなかった。
「じゃあ、俺は実験があるから」と和也は安野に向かって手を上げ、背中を向けた。
昔の女には興味がないと和也は前を見た。
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