狼は周囲をうかがう① (環境工学科二年 長瀬和也)

 四月も終わりに近づき、一学年下の連中に混じって実験、実習をするのもどうやら慣れてきた。

 和也かずやの顔はすでにこの学年にはすっかり知られていたが、和也の目から見て知った顔はほんの一握りに過ぎない。名前を覚えるのも一苦労なのでいちいち気にせず、少年Aとか少年Bとか、あるいはデブ男とかオタクとか適当に名づけても事足りるのだった。

 ここでも女子学生からは全く無視されている。当然のことだろう。すでに昨年の前期の段階で手をつけた女が二名いるのだから。

 現在のこのキャンパスで和也が相手にした女はかれこれ七名になる。もちろん公認となったり表沙汰になったのはそのうちの一部であって、和也とその相手だけが知る水面下の付き合いもいくつかあった。

 昨年女たちの不条理な追及にあって和也は休学に追いやられ、そのことが原因で今もキャンパスの女子学生からは総すかんのような状態となっている。

 知らぬは新一年生だけだろう。それも長くは続かないか。

 実験は二人一組で行うことが多い。今日の相方も今ひとつぱっとしない頭の回転の悪い奴で、和也がてきぱきと指示を出すと、素直にそれに従った。

 もともと和也は百八十超の身長で、睨みを利かせると大抵のおとなしい男は言うことをきくので、今年の実験も楽勝だと思われた。

「じゃあ、ぼくはちょっと校医の面接があるから、しばらく頼むよ」

 あとは仕掛けた実験の結果が出るのをじっと待つだけの手順になったところで、和也は相方に任せた。

 頃合いは丁度良い。輪島わじま医師は来ているだろうし、あの女子学生の安静時間がちょうど一時間を迎え、そろそろ輪島医師と面談に入る頃だった。

 案の定、医務室を訪れると、安静用の個室は空となっており、診察室で話を聞いている様子の輪島医師の声が聞こえていた。

「今、ちょうど実験が一区切りついたもので来たんですが、タイミングが悪かったですかね」

 わざとらしく言ったが、安積あさか看護師はソファにかけて待つようにいつもの口調で指示した。

 少しの間、言われたとおり黙って坐っていたが、おもむろに立ち上がって、デスクで静かにパソコンに向かって打ち込んでいる様子の安積看護師と沙希さきに話しかけた。

「さっきの子ですか? 頭痛がするとか言っていた……」

「そうよ、もうすぐ終わるから、もう少し待っていてね」

 安積看護師はあまり語りたくないようだった。しかし沙希に口を利かせるつもりがないことも確かで、それだから進んで和也の相手をしているのだ。

「あの子、誰かに追われているとか言ってませんか?」

 和也は思わせぶりに言った。すると二人の看護師は、少し驚きを隠せぬ様子で顔を見合わせた。

 これは手ごたえがありと和也は踏んだ。どうやら話に加われそうだ。

「それは僕じゃないですよ、念のため」と前置きをしておく。そうでなくても和也はストーカーだのと疑われた経験が何度もあった。「あの子の後ろを大柄な学生がついていくのをよく目にするんですよ。そういえばあの子と入れ違いでさっきここを離れるときも、学生課の窓口あたりで医務室のドアを見ていたなあ」

「それ、本当なの?」

 食いついてきたのが安積看護師の方だったので、かなりのヒットに違いない。和也ははやる気持ちを抑えるのに力を要した。

「まさか彼氏ってことはないと思うんですよ、何しろたいてい十メートル以上離れて歩いていますからね、でも先日なんか講義の時間帯でほとんど人影がないときも彼女の後ろを同じペースで歩いていましたからね」

「うちの学生さんかしら?」

「さあ、どこの誰かまではわかりませんね、僕は男には興味がありませんから」

 最後のは余計なジョークだと思ったが、二人は聞き流したようだ。

「それって、間違いないことなんでしょうね?」

「嘘言っても仕方がないでしょう。でかい熊みたいななりをしていましたよ。身長はぼくと同じ位かなあ、でも体重は百キロ超えているかもしれないなあ」

 それだけでは見当もつかないだろう。何しろこのキャンパスには肥満体の男子学生は珍しくない。百キロ超といっても二、三十人はいそうだった。

「じゃあ、あれは本当だったんですね」と沙希が口を開いた。「妄想かと思っていました」

 余計なことを口にしないよう安積看護師が目で沙希に注意した。

 鎌をかけたつもりだったが、やはりあの熊男は静かに女子学生をつけていたようだ。

 さすがにあの体格では女子学生の方も気づくだろう。それで恐れおののき、医務室へ逃げ込むというわけか。

 こうして見るとキャンパスのあちこちで男と女の静かなバトルが繰り返されているように思われた。考えてみればあの北見遥佳でさえ、自分が手を引いた後に複数の男たちが群がったと噂に聞いている。

 これだけたくさんの若い男女がいるのだから、日夜女をめぐって動きやかけひきがあって当然かもしれないと和也は思った。


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